私自身、いわゆる『詰め込み教育』と言われていた時代に学校教育を受けていました。勉強すること、 覚えることに、問題はありませんでしたが、高校までで教えられている内容は、大体、100年以上前に 確立された古いものです。
もちろん、大昔に確立したものでも、重要な基礎であれば、学ぶべきでしょう。しかしながら、高校の授業で 教わる内容は、何のためのものかが不明瞭で冗長なものが多いのです。
教師も、深い部分を教えるというより、「こんなものだ」と言わんばかり、大急ぎで教えています。 つまり、大学受験の対処方法を教えるだけ。「この問題には、こうやって解くように」と言われただけの人も多い のではないでしょうか。確かに、受験までの無味乾燥なパズルと思えば、何とかなるのでしょうが、「深く学びたい」「なぜなのか知り多い」 と思っている生徒にとっては、苦痛でしかありません。
実際、大学・大学院に進み、自身が大学で研究・教育をやるようになって、当時の自分の考えは 間違っていないことが分かりました。日本の高校のカリキュラムは、基本的に受験と国の規定などに合わせたものでしかないのです。 当時は、その中で行われる「偏差値競争」という名のゲームでした。
もちろん、そういう教育も弁護できるでしょう。例えば、「あれだけやらされたからこそ、基礎学力がついた」と。確かに一理あります。 しかし、そのほとんどの基礎は中学校のカリキュラムで十分通用します。よく言われるように、中学レベルの 英語を理解さえすれば、日常の英会話に苦労することはありません。実は数学などもそうなのです。
では、高校教育に意義があるのでしょうか?あえて言わせてもらえれば、「ない」のです。理由は「中途半端」だからです。 もちろん、中学より上の概念や多くのことを教えるのですが、基本的には核心には触れさせないのが高校のカリキュラムです。
例えば、数学の微分・積分の授業では、高校で扱える関数の数が「お上」から言われて決まっています。ですから、 問題によっては、それを避けるように不思議な設定になってるのもあります。これは、大学で微分・積分の講義を取ってみると 明らかです。大学では、もっと原理原則に基づいて教えています。
たしかに、これでも良いと思えば、良いのかもしれません。しかし、よく見ると、そういう、その場しのぎ(姑息な方法)で点数だけ とってきた人たちは、何かを疑問に思ったり、それを議論したり、解決するのに試行錯誤することを できない人が多いのも事実です。当然と言えば当然です。上から与えられたものを、上で用意されている「模範解答」 に合わせるように「勉強」していれば、考える力はなくなってしまって当然です。
そこで、時代的に要求されたのが「考える力」や「創造性を育てる」教育である『ゆとり教育』に変更されていきます。 しかしながら、この改革も、カリキュラムの内容や時間の長さだけの議論に終始しました。結局、教える内容を少なくしていくだけの 教育改革です。学力を本当に上げたいのか、上に従ってさえいればいいのか、本質のない改革でした。
大学に入ってからは、学ぶことの多さや深さは、大学受験レベルの知識とは比べ物になりません。 一つの学位でさえ3年から4年かけてじっくり学びます。年間に相当数の本を読まなければ基礎知識も追いつきません。 物理や数学だと、何十ページ、何百ページと計算式をノートに書きながら習得します。一つの科目を理解するのに、 何冊も参考書を借りたり、買ったりしなければ理解できません。大学院では、教科書にのっていないこは論文を取り寄せて 勉強します。それでも、学んだり研究することはいつも興味深いのです。
ここから言えるのは、研究者にならなくても、その一部を大人になって学べるだけでも、人生がずっと興味深くなるのは明らかです。 純粋に理論として面白いものもたくさんあります。さらに、それらがどのように実生活や技術に応用されているかも 興味深く学べます。高校までは別々に勉強していたものを自由に、垣根を越えて学ぶことでいろいろなつながりが見えてきます。
日本では、勉強は「大学受験まで」という風習があります。後はせいぜい、資格試験に合格するまででしょうか。しかし、実際の 学問は日進月歩ですし、必要に応じて、大人になっても学び続けなければいけません。もちろん、自ら「学びたい」 と思っていないといけないのですが。
日本でアメリカというと、ハリウッド、ニューヨーク、メジャーリーグを含めた様々なタレントが国を構成している イメージがありますが、現実は、州ごとに文化も違い、外国で何が起こっているかなど興味が低い人たちが大多数を 占めています。一方で移民・非移民を含めて多くの外国人も暮らしているのが現状です。習慣や言葉、学力レベルが違う人達も アメリカという地で同じく生活している、というのが本当の姿です。
教育の面で言えば、アメリカは、理数系の分野に多くの優秀な「外国人」が勉強や研究に励んでいます。大学院は、恐らくどこの 大学でもハイレベルな研究や教育が行われています。日本では無名な大学でも、優秀な教授を雇い入れられるシステムを採っているので、 どこの大学でも教育や研究は比較的活発です。
では、アメリカの初等・中等教育から大学教育は日本に比べてどうでしょうか。アメリカの学校は、それぞれの 学校に所属している教師の能力に差があり、生徒はそれによって学べる内容が全然違ってきます。日本に比べても、 高校で習うアメリカの数学は、日本の中学レベルというところが多いです。(東海岸のある州は、 レベルの高い授業を行っているところもありますが)
そういう意味で、アメリカの大学生は、必ずしも良い基礎をもっているとは言えません。とくに数学に関していえば、 大学生で分数や連立方程式が解けない大学生もたくさんいるのです。
一方で、自由な学び方や、発想の仕方は、日本よりも上でしょう。一人一人の学生の個性も際立っていますし、 良いものは良い、悪いものは悪いと、自身の意見と共に話し合えるオープンな雰囲気もあるので、新しいやり方や アイデアも受け入れられやすいところもあります。
これが、いわゆる、日本の「ゆとり教育」が求めていたことなのですが。。。しかし、このアメリカ教育の問題点は、できる子は トコトンできるけど、できない子は置いてけぼりになりやすい点です。アメリカでは、そこが問題になっています。
ここで、日本流の詰め込み方式とアメリカ流のゆとり式の間でジレンマが生じます。日本でも「偏差値」と「ゆとり」の間で 起こったのは、ご存じでしょう。実は、アメリカでも似たようなことが起こっています。アメリカの場合は、 政府が日本やアジア諸国の教育のように、テストを多用し、学力を上げる方式を進めましたが、教師や学校は、ついていけず、 結局、予算などを確保するために、学校ぐるみでテストの不正をしたりという事件もありました。
では、なぜこんなことが起こるのでしょうか。それは、どちらも一方のやり方(教育文化)しか経験していないからです。 日本では日本のやり方しか知らない人が多いですし、アメリカもアメリカのやり方しか知らない教師が多いのです。
私は、上述のように、一昔前の日本の詰め込み教育に疑問がありました。一方で、アメリカのように自由すぎて、 学ぶべきことを学ばせられない教育も問題です。アメリカの学生を教えるにおいて、当初は、大変苦労したのを覚えています。 代数もよくわかっていないし、数学の基礎がない人が多かったわけですから、その先にある物理を教えるのは 不可能に近かったのは事実です。しかし、日本のやり方の良いところ、アメリカ教育の良いところ、さらに、 かつての詰め込み教育の批判から、どんなに物理や数学が苦手な人にも教えられる方法やシステムを 確立することができ、多くのアメリカ人学生の理解力を改善することができました。
大人が学びたい事をうまく提供するのにも膨大な知識と「教育の技術」が必要になります。 子供を教えるように大人を教えると、うまくいきません。また、物理や数学などは独学で理解するのはひじょうに難しいのです。
資格試験を勉強するにしても、基礎を知って深く理解すると、仕事での問題解決に役に立ちます。あなたの自信につながると思います。 もしご興味があれば、我々のような学問の系図や教育の本質をわかっているプロの教師に、いますぐご相談ください。
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