昔、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。
師匠「やぁ、秋山くんじゃないか、元気でいたかな。」
秋山「はい、師匠、毎日元気でやってます。」
師匠「何か相談でもあるのかな。」
秋山「よく教育で言われるのですが、ゆとり教育がいいのか、偏差値教育がいいのか、という議論があるのですが、どっちが良いと思いますか?」
師匠「そもそも質問が間違っておる。」
秋山「え?どういうことですか?」
師匠「基本的な事を考える前に、適当に二項対立的な図式をもってきて、どちらがいいか議論するのは、本質的な答えを与えないということじゃ。つまり、問題設定そのものが間違っておる。そもそも、教育とは何か、なのじゃ。」
秋山「いかに成績を良くするか、いかに生産性を上げるか、じゃないんですか?」
師匠「それはあるが、こういうのは、ある土台を前提としてからの議論であることを理解せねばならぬ。」
秋山「といいますと?」
師匠「つまり、教育とは、一人一人が価値判断ができるようにすること、考えて、議論して、適切な決断を状況に応じてできること、自ら学んでいく方法論を習得すること、など、あげればきりがないが、端的に言えば人間形成に必要なプロセスを言うのじゃ。この土台があって、成績などが議論されるということなんじゃ。」
秋山「でも、そこまで行っちゃうと、議論が抽象的になりすぎませんか?」
師匠「抽象的というのは曖昧とは違う。まず、どこまで一般化して、そこから具体的な議論を始める、というのも方法論の一つじゃ。」
秋山「わかりました、師匠。となると、ゆとりにしても偏差値にしても、どこまで教育の本質を体現できているか、ということですね?もちろん、他のやり方も検討できると思いますが。」
師匠「その通りじゃ。で、秋山くん、君はどう思う?」
秋山「偏差値教育は、記憶や判断力重視で、与えられた問題を早く正確に解くことを目標にした感じがありました。一方、ゆとりは、自分で考える力を養い、また、学んでいく能力を付けて行くというのが目標でした。」
師匠「確かに、両者とも、それなりに理想にかなっていた。もちろん、ある程度成功した部分もあっただろうが、それぞれの問題点は何だったと思う?」
秋山「偏差値の方は、テストの点数に重きを置きすぎて、議論すること、観察すること、導いて説得すること、創造することなどが、かなりおろそかになったと思います。ゆとりは、できる子とできない子の差が開いたり、カリキュラムを削ることに躍起になって、十分な知識を習得できなかった生徒が多くなったことでしょうか。」
師匠「つまり、教育の方法として、どちらもバランスが取れていない、というか、こっちを上げれば、あっちが下がる、という結果になった、ということかな?」
秋山「そうです。結局、どの教育方針をとっても、こうなる運命なんでしょうか?」
師匠「うむ。どこの国でも起こり得るが、特に日本の場合は、上から降りてきたものをいかに上手にやるか、極めるか、というのがしきたりになっておるから、教育の原理原則から、最終的にかけ離れてしまう。つまり、一点集中してしまうということじゃ。偏差値なら、いかに点数をあげるか、ゆとりならば、いかに教えることを減らすか(笑)じゃな。」
秋山「確かにそうですね。本来ならば、どっちかではなく、どちらもうまく融合させていくことなんでしょうね。でも、そんなことできるんですか?」
師匠「できなくはない。例えば、フィンランドの教育改革は、ゆとり教育だが、それなりにPISAというテストなどで点数も取れたし、考える力も付いたとされる。あそこは、教師を育てるのに力を入れた。先生になるには教育修士を必須としているし、生徒に教えるのではなく学ばせることを徹底している。」
秋山「なるほど。」
師匠「結局は、教師の質ともいえるんじゃ。教師がその教科について良く知っておれば、生徒は自ずと勉強する。わしも経験したが、そんなに勉強しなくていい、と言っても勉強してくれた。(笑)」
秋山「確かに、教師が質問にわかりやすく答えてくれるか、とか、わかってもらいたいと思ってやっているかは、学生でも感じます。この先生に質問しても、ちゃんとした答えが返ってこないなぁと思うと、勉強しようという動機も薄れますし。。。」
師匠「教育は、偏差値が良いか、ゆとりが良いか、ではないことが分かったんじゃないかな?」
秋山「はい。そうですね。勉強になりました。今日はありがとうございました。」