ノーベル賞の意義を人々は理解しているのでしょうか?

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「いままで、科学の話やノーベル賞などの話をしてきましたが、ノーベル賞に関して、少しお話ししてもらえますか?」
師匠「特に日本人は、ありがたがるな。(笑)上からのお墨付きというか、そういうものに弱いんじゃな。」
秋山「そうですね。気持ちは、ある程度わかるのですが、日本人が取ったからという理由で、お祭り騒ぎをするのは、ちょっと行き過ぎのような。。。」
師匠「ま、そういうことは置いといて、ノーベル賞は、ノーベルがダイナマイトを発明したことが、戦争に使われ、それを通じて多大な利益を得たっちゅうことで、自責の念が生じてしまった。その罪滅ぼしで、世界平和に貢献したものに賞金を与えてくれ、という遺言を元に作られた賞じゃな。」
秋山「そうですね。でも現在は、少し趣が違ってきてはいますね。」
師匠「うむ。ある程度、その分野や世界への影響力を考慮しながら、独自の視点で賞を与えているような感じはする。」
秋山「しかし、人間が人間を評価する点で言えば、たとえノーベル賞でも完ぺきではないですよね。」
師匠「政治的な影響も考えたりもしているらしいし、過去には、ノーベル賞を受賞した研究結果が間違いだとわかったものもある。」
秋山「たしかに、平和賞や経済賞に対する批判は、よく聞きますね。」
師匠「一方で、ノーベル賞は、市場では、なかなか日の目を見ない作品や貢献を、ある意味、意図的に評価していると思える。」
秋山「単に売れているものとか、人気がある物に授賞していないようですね。ま、そういうのに授賞する賞は他にもいろいろありますしね。これは、明らかに政治的に表彰しているだろう、っていうのもありますしね。(笑)」
師匠「そういう意味で、ノーベル賞を観賞すべきであって、この受賞が人類にとって何を意味しているのか、考える機会にしてほしいんじゃ。」
秋山「んー。そうですね。日本人が取ったからといって、お祭り騒ぎしたり、日本人が取るかどうかだけでノーベル賞を見るのは、ちょっと稚拙なのかもしれませんね。」

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科学的な考え方を社会の見方に応用すると。。。

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師匠と秋山くんの会話の続きです。

師匠「さっき言った、数値の基準とか数値そのものは、科学的考え方ではない、というのは、社会を見る視点にもなるのじゃ。」
秋山「そういう意味で、文系と理系という分け方は、絶対的ではないということですね。」
師匠「その通りじゃ。まぁ、物の見方という点では、哲学にも通ずるが、物事の分類というのは、条件をもとにした相対的な視点を与えるだけでしかない、ということを頭に入れとかなければならない。」
秋山「で、社会を見るにおいての科学的視点とはなんでしょうか。」
師匠「おお、忘れとった。わしにとっての専門ではないが、法律に対して科学的視点がないと、社会を正しく運用できないのでは、ということだ。」
秋山「つまり、法律の文言にとらわれていれば、その背後にある理論を無視しがちになるということですか?」
師匠「そう。どのような背景において、その法律が作られたかを理解していなければ、誤った方向で適用されうる。本来は、社会全体をうまく回せるように制定しているものだから、法律の文言に対して重箱の隅を楊枝でほじくるようなことをしても意味がないのじゃ。」
秋山「確かに、世の中の議論を聞いていると、いつの間にか、どうでもよい点で右がいいのか、左がいいのか、ってやってますね。あ、僕もそんな質問を師匠にしてましたね。(笑)」
師匠「法律に書かれているものは、絶対的な悪とは限らない。例えば、文化に依存する法律もあるじゃろ。」
秋山「えーと、飲酒とかですか?」
師匠「それもあるな。イスラム教の国の全てではないが、厳しい所では、法律で禁止しているし罰則もある。まるで、危険な薬物のような扱いじゃな。」
秋山「賭博はどうでしょう?」
師匠「イギリスでは合法で、いろんなことがかけの対象になっているが、日本では、合法化されているものとそうでない行為があるな。」
秋山「この件に関しては、議論されるべき課題ですよね。経済的活性化を狙うための規制緩和、一方で、中毒者を創出してしまうリスクをどうするか、胴元が必ずもうかるシステムを野放しにする社会的な危険性など、社会全体で細かい教育や、リテラシーなどが重要になりますね。」
師匠「法律は最低限の倫理、と言われるが、これは、社会がうまく回るための「タガ」として有効なだけで、行為の倫理的判断は、その背後、もしくは、もっと上のレベルで行われる。」
秋山「規制強化や規制緩和も市民の社会活動を調節しているだけで、善悪の倫理判断ではないですしね。」
師匠「我々市民は、法律の表面的な文言に入りすぎたり、法律と倫理を一緒くたにするような議論には気をつけねばならない。」
秋山「そうですね。」
師匠「わしは、物理を教えてきたが、物理でも同じことがある。これも、数値や公式だけにこだわると、正確に問題を解けない。初学者は、物理の関係式を適当に代入して、全く見当違いの回答を出す。それぞれの関係式の背後には理論があって、その原則に基づいて、数式を操作するのが本来なのじゃ。」
秋山「確かに、科学では原理、原則、結果の意味や解釈を重要視しますもんね。もちろん、数学だけで発展させてきた側面もありますが、数学はさらに緻密な論理体系を持ってますからね。」

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日本は科学教育が進んでいるのか?本当は違う衝撃の事実

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「師匠、日本の科学技術の世界的評価や科学分野のノーベル賞受賞者が増えてきている、ということから、日本の科学教育は成功したと言えるのでしょうか?」
師匠「確かに、数学や理科系の教育を強化した結果であるが、日本人全体に科学リテラシーがあるかどうかに関しては、議論の余地があるかもしれん。」
秋山「どういうことですか?」
師匠「科学で成果を出せる頭のいい優秀な人は、一定量いる。それとは別に、市民の一般教養として、科学とは何か、科学的思考をもって批判できるか、というのが科学リテラシーじゃ」
秋山「このリテラシーは、いままでの学校の科学教育で習得できないものですか?」
師匠「日本では、どちらかというと、数学の教育に力を入れつつ、科学分野、物理や化学に人材を送っていた流れがある。それに加え、理系と文系と分けて、教育してきたために、初等・中等教育で科学的な見方を教えたり訓練する機会が少ない。いわゆる、科目別にエキスパートを育ててきたにすぎないのじゃ。」
秋山「なるほど。そうだとすると、たとえ科学者と言われる人でも、科学的な考え方ができているとは限らないのではないですか?」
師匠「その通りじゃ。細かいことや、数式をいじるのが好きだからやっているという人もいる。これはこれでいいんじゃが、世の中にある情報を、客観的に、事実に基づいて、適切に分析、議論ができない社会を放置するのは問題だろう。」
秋山「例えば、どのような事例が思い浮かびますか?」
師匠「例えば、数値が基準値を超えた、など、数値だけを信じて右往左往するのは、科学的思考ではない。」
秋山「数値は科学にとって大事ではないのですか?」
師匠「大事であるが、数値を得る以前の過程が分かっていなければ、意味がない。例えば、どのように測定したのか、どのように計算したのか、という部分じゃ。」
秋山「確かに、そうですね。実験値には誤差もありますし。。。」
師匠「つまり、数値の背後にある理論を議論できなければ、間違っているかもしれない数値を前に右往左往するしかない。よく聞くじゃろ、どっちを信じていいかわからい、とか。」
秋山「こういう部分は、この前、議論した偏差値教育にも問題があるのかもしれないですね。つまり、答えが合っているかどうかにしか興味がなくなる、という。。。」
師匠「うむ。それもある。点数主義の負の遺産が科学的思考を阻んでいる背景もあるようだ。」
秋山「もう少し、科学とは何かに関して教えてもらえますか?」
師匠「科学には、すべてを説明する義務はない。」
秋山「え!そうなんですか?」
師匠「証拠から論理的に推論していくこと、実験によって実証または反証しながら理論を構築すること、などが科学であって、人類のなぜに対してすべてを説明することが役割でない。」
秋山「なるほど。そこが哲学や宗教と違う部分なんでしょうね。」
師匠「あとは、予測可能である理論かどうかじゃ。説明はできても予測ができなければ、科学としては認められない。」
秋山「今日もありがとうございました。」
師匠「うむ。将来の発見や革新によって、定義などが修正されるかもしれないが、現在の基本的立場は、そういう感じじゃ。」

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専門ノート:非線形システムにおける予測可能性に関しては、もっと議論を深めなければいけませんが、統計的分析やその他の数学的ツールによって、ある種の巨視的な物理量を予測することは可能で、必ずしも時系列としてだけの予測とは限りません。

本当の教育のあり方とは?「ゆとり」それとも「スパルタ」?

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昔、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

師匠「やぁ、秋山くんじゃないか、元気でいたかな。」
秋山「はい、師匠、毎日元気でやってます。」
師匠「何か相談でもあるのかな。」
秋山「よく教育で言われるのですが、ゆとり教育がいいのか、偏差値教育がいいのか、という議論があるのですが、どっちが良いと思いますか?」
師匠「そもそも質問が間違っておる。」
秋山「え?どういうことですか?」
師匠「基本的な事を考える前に、適当に二項対立的な図式をもってきて、どちらがいいか議論するのは、本質的な答えを与えないということじゃ。つまり、問題設定そのものが間違っておる。そもそも、教育とは何か、なのじゃ。」
秋山「いかに成績を良くするか、いかに生産性を上げるか、じゃないんですか?」
師匠「それはあるが、こういうのは、ある土台を前提としてからの議論であることを理解せねばならぬ。」
秋山「といいますと?」
師匠「つまり、教育とは、一人一人が価値判断ができるようにすること、考えて、議論して、適切な決断を状況に応じてできること、自ら学んでいく方法論を習得すること、など、あげればきりがないが、端的に言えば人間形成に必要なプロセスを言うのじゃ。この土台があって、成績などが議論されるということなんじゃ。」
秋山「でも、そこまで行っちゃうと、議論が抽象的になりすぎませんか?」
師匠「抽象的というのは曖昧とは違う。まず、どこまで一般化して、そこから具体的な議論を始める、というのも方法論の一つじゃ。」
秋山「わかりました、師匠。となると、ゆとりにしても偏差値にしても、どこまで教育の本質を体現できているか、ということですね?もちろん、他のやり方も検討できると思いますが。」
師匠「その通りじゃ。で、秋山くん、君はどう思う?」
秋山「偏差値教育は、記憶や判断力重視で、与えられた問題を早く正確に解くことを目標にした感じがありました。一方、ゆとりは、自分で考える力を養い、また、学んでいく能力を付けて行くというのが目標でした。」
師匠「確かに、両者とも、それなりに理想にかなっていた。もちろん、ある程度成功した部分もあっただろうが、それぞれの問題点は何だったと思う?」
秋山「偏差値の方は、テストの点数に重きを置きすぎて、議論すること、観察すること、導いて説得すること、創造することなどが、かなりおろそかになったと思います。ゆとりは、できる子とできない子の差が開いたり、カリキュラムを削ることに躍起になって、十分な知識を習得できなかった生徒が多くなったことでしょうか。」
師匠「つまり、教育の方法として、どちらもバランスが取れていない、というか、こっちを上げれば、あっちが下がる、という結果になった、ということかな?」
秋山「そうです。結局、どの教育方針をとっても、こうなる運命なんでしょうか?」
師匠「うむ。どこの国でも起こり得るが、特に日本の場合は、上から降りてきたものをいかに上手にやるか、極めるか、というのがしきたりになっておるから、教育の原理原則から、最終的にかけ離れてしまう。つまり、一点集中してしまうということじゃ。偏差値なら、いかに点数をあげるか、ゆとりならば、いかに教えることを減らすか(笑)じゃな。」
秋山「確かにそうですね。本来ならば、どっちかではなく、どちらもうまく融合させていくことなんでしょうね。でも、そんなことできるんですか?」
師匠「できなくはない。例えば、フィンランドの教育改革は、ゆとり教育だが、それなりにPISAというテストなどで点数も取れたし、考える力も付いたとされる。あそこは、教師を育てるのに力を入れた。先生になるには教育修士を必須としているし、生徒に教えるのではなく学ばせることを徹底している。」
秋山「なるほど。」
師匠「結局は、教師の質ともいえるんじゃ。教師がその教科について良く知っておれば、生徒は自ずと勉強する。わしも経験したが、そんなに勉強しなくていい、と言っても勉強してくれた。(笑)」
秋山「確かに、教師が質問にわかりやすく答えてくれるか、とか、わかってもらいたいと思ってやっているかは、学生でも感じます。この先生に質問しても、ちゃんとした答えが返ってこないなぁと思うと、勉強しようという動機も薄れますし。。。」
師匠「教育は、偏差値が良いか、ゆとりが良いか、ではないことが分かったんじゃないかな?」
秋山「はい。そうですね。勉強になりました。今日はありがとうございました。」

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「統計力学」って物理が曖昧なこと言っていいの?

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こんにちは。物理学といえば、もっぱら、ニュートンの力学やアインシュタインの相対論ですが、今回は、あまり表に出てこない「統計力学」のお話をしたいと思います。

統計と言えば、多くのデータから、平均やばらつきを求め、全体の傾向を求めるための手法です。

力学は、方程式があって、初期値を与えると未来の運動は決定される、というものです。

さて、この二つが相容れるのでしょうか?

確かに、1つや2つの物体の運動は、簡単ですし、想定外の力が働かなければ、ほぼ確実に予測可能です。しかし、もっと多くの物体が集合的に運動していたらどうなるでしょうか。

もちろん、それでも、ひとつひとつの物体の方程式が立てられます。つまり、連立方程式を解くことになります。(厳密に言えば連立微分方程式ですが)

しかし、精密に連立方程式を解くには、方程式の数だけパラメータが必要になります。中学・高校で習ったのを覚えているでしょうか。2つ未知数を解くとすれば、2つ方程式が必要になると同じことです。

ただ、多粒子が複雑に絡み合う運動のすべてのパラメータを書き出すのは不可能です。

そこで、粒子一つ一つを記述するよりは、粒子全体の動向を調べる方が、全体の力学的な性質を理解できるということで、統計的手法を使うというのが、統計力学です。

注意しなければいけないのは、統計力学は全体の運動を記述するというのではなく、ひとつひとつの粒子の運動が全体の物理的性質にどのように影響するか、という見方です。

例えば、液体や空気の運動は、流体力学で議論しますが、空気の分子の運動から導く、巨視的な物理量を議論するには統計力学になります。

統計物理的な手法は、運動の物理的性質を分類したり、解析したりするので、ひじょうに広範に使われるものなので、一度、勉強してみるのも良いのではと思います。

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「ハフトゥー」ではなく「ハフタ」、英語の発音、なんでそうなるの?

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かつてテレビのコマーシャルで、Have to は、「ハフトゥー」と発音するのではなく、「ハフタ」、にすると教えていますね。

これは、中学生用に発音や聞き取りの、いわゆる「コツ」を教えている感じですが、大人的には、どうしてなのと聞きたくならないでしょうか?

そもそも、to は、トゥーと発音すると教えられたのに、「タ」、って、どうゆうこと?

わかりました。大人向けに説明しましょう。基本は、「トゥー」でも、「タ」でもありません。ただ、実際の発音からすると、短く、「タ」、と発音するほうが近いということです。

基本は、子音の発音が英語では重要になってくるということです。to は、日本語でトゥーというように、「ゥ」、に力を入れるのではなく、「トゥ」、というように短く破裂させるように発音します。

日本語は、必ず母音によって発音が閉じるので、英語のように、子音だけの発音はしません。日本人にとっては、聞き取るのが苦手、というか、そもそも頭の中に無いので、舌、顔の筋肉や耳が反応できないのです。

他にも、英会話学校などのCMで、「あなたの英語は、きれいな英語ではない」と言われているのも、基本は、きちんと子音や、英語独自の発音、(例えばth など)、ができていないのが理由です。

英語は日本語よりも発音のバリエーションが多いので、本来は、英語の発音をカタカナで説明するのは、発音の教育上あまりよろしくない、ということでしょう。

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アインシュタインの相対論は、絶対的なものを排除してしまったのか?!

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アインシュタインの相対性理論を勘違いしているような、記事を見かけることがあります。少し大人げないかもしれませんが、誤解されたくないので、正しいことをお伝えしたいと思います。

相対性理論というのは、アインシュタインの前にもありました。(厳密には相対性原理といいますが)それは、止まっている人が観測しても、動いている人が観測しても、ある物体の運動の実験値は同じであるとすることに基づいています。これを相対運動と言います。

つまり、物理的結果が客観的であるために、両者の観測の仕方は、相対的に差し引きしないといけない、ということです。これを「ガリレイ変換」といいます。

では、アインシュタインは、何か新しいことをしたのでしょうか?実は、このガリレイ変換は、物体の運動には適用できるのですが、電気に関する運動では、使えないのです。

さらに、ガリレイ変換は、光の速さに近づいていくと、物体の運動にも適用できなくなります。

そこで、多くの物理学者や数学者が、この謎を解明すべく、いろいろな案を出していきました。ここで、ローレンツ変換というのが、有効だとわかったのですが、物理学的な解釈が分かりませんでした。

ここでアインシュタインが「時間が遅れる」という概念を付与して、ある意味、普遍的な相対性理論を完成させました。

ここまでは、特殊相対論と言われます。つまり、等速運動における、相対運動の一般理論です。

もちろん、ここでの相対性というのは、絶対的な何かと比べているわけではありませんよね。

その後、一般相対性理論を論じる時に、相対性というものが、「取り換え可能な物理量」というように拡張されます。つまり、「区別ができない」という意味で相対的としました。

そして、アインシュタインは、加速度というものと、重力という物を「相対的」に扱うことによって、相対論そのものを加速度運動まで一般化しました。

もちろん、相対論の哲学的背景に比較対象として絶対性を加味することもできますが、科学的な用語としては一切出てきません。

物理学における、相対性理論は、「絶対的理論」と対比されるというのは、ないということでした。

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「われ思うゆえに我あり」、デカルトが貢献した物理とは?

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デカルトと言えば、「方法序説」で有名な哲学者というイメージですが、数学にも造詣が深く、初期の物理学にも貢献した人です。

もともと、彼は、「複雑なものを基本的なものに基づいて記述すべき」という考え方を持っていたので、「科学的考え方」を提唱した一人であったのは間違いありません。

ところで、物理学への貢献ですが、彼は「座標」というものを発明しました。いわゆる、基本的なx、y、z軸で表すものです。

この座標の名称を「カルテシアン座標」と言いますが、デカルトから由来しています。

もう一つは、「運動量の保存則」です。これは、衝突前の総運動量と衝突後の総運動量が同じになるという、自然の法則です。ちなみに運動量は、物体の質量かける速度です。

有名な例は、下の絵にあるオブジェです。これは、一個のボールを持ち上げて離して隣のボールに当たると反対側のボール、一個が飛び出るものです。

運動量が保存するので、二個当てれば、二個飛び出ます。

今でも重要な法則大人の家庭教師や座標システムが、哲学で有名な人によって生み出されていたのも面白いですね。

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W. パウリという物理学者が残したもの

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ヴォルフガング・パウリというドイツ出身の物理学者がいました。1945年にノーベル賞を受賞したのですが、生涯にわたって、物理の理論に多くの貢献をしたことでも有名です。

まぁ、歯に衣着せぬ文言や批判も多い人でもありました。また、「パウリ効果」と言って、彼が生粋の理論家ということで実験室に近づくと、実験器具におかしなことが起こるという半分冗談なことも言われた人でした。

実は、僕の大学院のアドバイザーのアドバイザーのアドバイザーがパウリだったそうです。もちろん、僕自身には関係ないですが、教科書の人と意外なところで身近に感じた瞬間でもありました。

彼が、発見した法則がありました。専門用語で「排他律」というのですが、ある種の粒子、例えば電子や陽子などです。これらは、エネルギーが同じであれば、いっしょにいられない、という発見です。

これに関しても、「だから何」とお思いでしょう。理論的に重要な発見でもありますが、この事実から言えるのは、これのおかげで、机や椅子など形を保っていられる、ということです。

言い換えれば、排他律に従う粒子は物質を作っている、ということです。では、排他律に従わない粒子は何でしょうか。

代表的なものは光です。光は光子という粒子の集まりですが、一つのエネルギー状態にいくつも光子が存在することができます。実際、光そのもので物質を構成しているのは見たことがないですよね。

もう一つ紹介したいのは、ニュートリノに関しての貢献です。恐らく、2017年現在でニュートリノという言葉を知らない人は、少ないかもしれませんが、ニュートリノとは何なのか、知っている人は少ないでしょう。

そもそも、この粒子の発見にパウリがかかわっていました。

簡単に説明すると、昔、ある物理学者が、放射能が出る実験的なプロセスを見てみると、エネルギーが保存しないのでは、と提唱し始めました。

しかし、パウリは、そんなことはないだろうということで、ニュートリノという粒子がその反応にはかかわっていると、予言しました。

その後、その粒子が発見され、エネルギーも保存されるということで、めでたし、めでたし、となったということです。

物理だけではないですが、物理学も、長い年月をかけて、いろいろな人の貢献の上に成り立っているということですね。

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空に向かって銃弾を打っちゃダメ、空気が人間にとって大事なもう一つの理由

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物理の基礎に運動論というものがあります。位置、速度、加速度などの量から、基本的な運動の記述の仕方に関しての議論です。

車の運転もそうですね。平均速度を求めたり、ある時間から、ある時間までの加速度を求めたり。こういうのも運動論の問題です。

さらに、物を投げた時の運動も運動論で議論できます。これを、放物線運動と言って、重力も考慮に入れます。

放物線運動の一つになりますが、真上にボールを投げることを鉛直投げ上げ運動と言います。

全ての投げ上げ的放物線運動に言えるのですが、投げた時の初速度が、地面に付く瞬間の終速度と同じになります。もちろん、空気抵抗などがない場合です。

そうすると、例えば、銃を天に向けて撃つ速度と地表に落ちてくる速度は同じになります。

つまり、落ちてくる銃弾にあたると言うのは、ある意味、銃で撃たれることと一緒になります。

ここに、実話があります。ある国でサッカーの試合がありました。ゴールキーパーが試合中に突然、激しい頭痛に襲われてしまいました。何とか頑張って、試合後に病院に行き原因がわかります。銃弾が頭蓋骨に刺さっていたのです。

幸い、命に別状はなく、問題はなかったようですが、近くの結婚式か何かで、誰かが空に向かって打ったのでは、ということです。

ちょっと待ってください!先ほどの議論では、投げ上げの初速度と終速度は同じ速さなのに、なぜ彼は軽症で助かったのでしょう。

空気抵抗のおかげです。雨粒も高いところから落ちてくるのに、人間をケガさせたり、物を壊したりしないのは、大気のおかげなのです。

ただし、人為的に高いところから物を落とさないように気を付けましょう。

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