「お釈迦様へのあこがれ?」本当の意味における教育問題

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最近、日本の受験より、韓国や中国の受験のレベルが高いなどと言われています。だから、日本の競争力が落ちてきている、など評論する人もいますが、実際の中身は、もっと複雑でしょう。

受験問題を複雑怪奇な難問にすることは、誰にでもできます。受験生がそれを100%理解していなくてもそれなりに解くことはできますし、所詮、合格者は、上から順番に取っていくというものでしかありません。つまり、難問奇問が試験に出すことと学力はそれほど関係はないのです。

ただし、考えさせるような、チャレンジさせるような「教育」(テストとインタラクションの両方)がそのベースにあるかどうかの方が重要になるのです。

そういう意味では、日本では、教育の質と将来の人間や社会に対するグランドデザインがきちんとリンクされて行われているのでしょうか?

社会や将来への期待にこたえられるかどうかとなると、社会制度がそういう人材を生かしきれているのか、というのも問題になってきます。

それらすべての要素に教育がつながっていると認識している方は、どれくらいいるのでしょうか?

教育は何も、お上から下ってきた教科書を、一字一句、生徒に暗記させる作業ではないのです。独り立ちして考えられる人間を育てる総合的な環境づくりやコーチングに根ざしていないといないのです。

問題の発見の仕方、その解決の仕方や、自由な発想や、想像力。それらを学べ、実行できる環境が社会全体にあるのかが、その地域(国)の教育レベルなのです。

ある所に一流と言われる経歴を持った人がいます。地位も確約され、周りからも尊敬されていますが自由はあまりありません。

ある人は、学歴などはないのですが、商才や人脈に長けていて、多くのビジネスを成功してきています。

また、ある人は、大好きな学問や研究に没頭しています。非常に幸せですが、お金に関しては、苦労しています。

それぞれの成功の価値観や、得手不得手もありながら、人生に価値を求め、社会に貢献をしています。もちろん、実際は、もっと複雑であると思いますが、成功方程式の解は一つではありません。これも、教育が認識すべきことです。

西遊記で、孫悟空がお釈迦様に勝負を挑まれました。お釈迦様は、悟空が自分の手のひらから出ていくことができれば、何でも言うことを聞く、と。

悟空は筋斗雲で10万8千里をひとっ飛びと言ったものの、結局、お釈迦様の手のひらより遠くへ行くことができず、罰を受ける、というお話です。

悟空は、とても能力があり、戦いではだれにも負けたことはありませんでした。いわゆる、その世界でトップです。

それが、お釈迦様の領域から抜け出せないのです。どうみるべきでしょうか?

現代の社会でも言えますが、非常に優秀な人間が常に、しかも、何にでもすごいというものではなく、他の違った認識の下では、限度があると謙虚に理解すべきなのです。

また、これも教育という概念の中で考慮すべきこと、教え伝えるべきものなのかもしれません。

試験だけ、何か一つの目的のため、という教育は、もう成り立っていないのです。

大人のための家庭教師

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