「好きこそ物の上手なれ」とよく言います。好きなことは、一生懸命になりますし、自主的に勉強し、創意工夫しながら上達していくということです。
また、よく言う「私は褒められて伸びるタイプ」というのもありますが、まぁ、これは微妙で、学び始める人たち誰もが持つ、不安を解消したいという心理的なものであって、必ずしも、褒める行為そのものが伸びるかどうかに寄与するかは別になります。
実際、その科目をよくわかっている人で、教育に携わり、学生を伸ばそうと思っている人は、安易に学生を褒めませんし、また、安易に叱責も行いません。(もちろん、心理状態を把握して行うことはありますが)
こういう教育的な部分を、どうも世間は誤解しているようです。
実は、こういうことがありました。数学が好きで数学を学びたいという人が私に教えてほしいと頼んできたのです。その人は、大学レベルの数学理論を学びたいと、あるレポート論文を送ってきて、それを教えてほしいとのことでした。
こちらは、相手がどこまで理解しているかを見ながら、実際にそこに書かれている数式や数値を導くように指示しました。
ところが、かなり苦戦したようで、いろいろと文句を言われましたが、実際の計算内容は、中学校レベルの計算でした。
その人は、過去の有名数学者にあこがれて、数学が好きになったとおっしゃられています。数式の美しさや魅力など説明していましたが、実際の実力は、ほとんどついていなかったのが事実でした。
その方が言うに、以前、引退した大学教授を通じて通信教育(手紙のやり取りでの添削)などで学んでいたようです。
ここで、現代の大学(一般)教育において2つの問題点を指摘しておきます。1つ目は、数学そのものを好きではなく、数学が好きな自分が好きな人がいて、実際の訓練を受けてこなかった人がいるということです。
教育の場がいわゆる「コーチ」のもとで適切に訓練されたり、それをもとに自主的に伸ばしていくような環境に本当にあるのか、という問題点です。
この件だけで一般化するつもりはありませんが、本当に高等教育はそれだけのことを身につけさせているのでしょうか?
2つ目の指摘ですが、確かに引退した教授に責任はないでしょうが、中学・高校生程度の数学的なリテラシーさえ見抜けない状態で指導し続けていたというのも疑問に感じてしまいます。
これは、少し考える機会になるかもしれません。我々が、学校に行っている、試験に通った、という事実だけを評価していますが、中身が伴っていないというのも多々あるのです。
もちろん、解決法は簡単に見つからないのが現状ですが、少なくとも、「このような教育問題を良く知っている人は誰なのか?」というアンテナを常に張って、そういうところから情報収集するというのは、親として社会として重要な責任になって来るのではないでしょうか?