先日、ラジオで「僕は算数の答えがすぐに思い浮かぶんだけど、その導き方を書くのが苦手で。。。」みたいな話になって、「良く、子供は、答えさえ合っていれば導き方なんてどうでもいいでしょ」という会話になってしまう、ということを話していました。
しかし、教育の中で、「答えさえ合っていれば良い」となれば、様々な問題が生じてしまいます。今日は、そこら辺を少し掘り下げて議論してみたいと思います。
「答え」というのは、どこから来ているのでしょうか?当然、問題を作った人が用意したものです。でも、これが合っているのかどうかは、いろいろな形で確かめられています。
それでは、たまたま答えたものが、用意された答えといっしょであったとしたら、「大正解」といえるでしょうか?もしかしたら、類題を出されて、今度は間違ってしまうということもあるのではないでしょうか。
算数・数学や物理などの数理科学は、ギャンブルではありませんし、多数決で答えが決まるものでもないのです。たまたま合っているような答え方をすれば、予測が当たったり、外れたりで使い物になりません。
そもそも、数学やそれを使う科学は、予測可能な方法を確立するもので、それに欠かせない事として、途中経過が合っているかどうかが重要になります。
途中経過が間違っていれば、条件が変わるごとに、合っている答えを出したり、間違っている答えを出したりしてしまいます。
そして、途中経過が記録されていれば、答えが間違っていても、さかのぼって検査することができるのです。そこで、正しい方法に修正して、どのような条件でも正しい答えを出すように、世の中の大人は、会社や研究所などで、このようなことをやっています。
答えさえ合っていればというのは、ある意味、無責任なことであって、しかも、修正やその先の創意工夫までもあきらめてしまっている態度なのです。
教育の現場では、答えが合っているだけではなく、途中経過もきちんと精査されることがいかに将来に重要かも教えられれば良いですね。