最近、テレビ、ネット、ラジオ、雑誌や新聞において、人々のコメントを見る(聞く)に、特徴的な話し方に気づきました。恐らく、その人の教育(教養)によって変わるのでは、と思われます。
人によっては、「右翼だ!左翼だ!」と言ったり、「親日だ!反日だ!」という感じで判断する場合もありますが、それよりも、もう少し細かい反応について話したいと思います。
よく話を聞いていると、ある人は感情を優先しながら、自身の意見を広げていくように話をします。例えば、「二人とも、今まで一生懸命やってきたんだから、何とかこれからも仲良くやっていけたら...」とか、「この件については、あっちも悪いけれどこっちも悪いから、いろいろ反省しないと…」などです。
また、「お前が言うな」みたいに、笑いを誘うようなものもありますが、終始、人々の同情を組み込んだような話の内容になっています。
一方で、物事の問題点を指摘して、他の国や違う時代と比較しながら、それに一定の解答を与えるようなコメンテーターもいます。
ある意味暴論かもしれませんが、この2人の違いは、教育から来るのではと考えられます。
日本の国語の授業は、どちらかというと、著者や登場人物の気持ちや心理状態を問う問題が多い感じです。他にも、何文字以内に状況をまとめるようなものもあります。
つまり、いかに人々の感情を読み取り、うまくまとめるか、という訓練が行われてきていて、前者のコメンテーターがこれに当たります。
一方で、アメリカの国語(英語の授業になりますが)では、いかに論理的に自身の考えを伝えるか、だとか、いかに、相手を説得するために、仮説と証拠を用意して、結論付けられるか、という訓練が行われています。
一般的な日本人の会話の多くが、感情を考慮しながら、まとめることで、混乱を防ぐような議論をしがちだということです。
一方で、欧米などで教育受けたり、科学系を専攻していたり、積極的に本を読んで勉強をしている人は、問題を把握し、それに対する分析や証拠の列挙と、取り得る解決策を言うことができます。
私の持論でもありますが、日本では、科学的な教育がしっかり定義されていないというのが現状です。
中には「いや、日本人のPISAにおける数学や科学の成績は世界的に見てよいではないか!」という人もいますが、そのテストは、知識のテスト(考え方もありますが)であって、科学的な考え方を、教育界が訓練して育んできた結果ではありません。
つまり、科学的な思考法というのは、国語であったり、いわゆる、文系と言われるものにも重要な役割を果たしています。そもそも、理系・文系と分けるのに教育的には意味がないということなのです。
教育が人を作ります。また、人が国や世界を作るのですから、正しい教育がいかに大切かがわかると思います。