「大学受験改革」はうまくいかない、そもそも試験で全て決めるのが問題!

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教育改革や受験改革などよく聞きますが、結局、問題を作るだけで、それほど変わっていないと感じるのは、私だけでしょうか。

物事の仕組みを変えても、中身が変わらない、というのはよくあることです。今回は、アメリカのシステムから、日本の教育や受験の中身を議論してみます。

私の持論でいえば、日本の場合は、社会全体が大学受験に力を入れすぎています。大学に入ることにだけに集中している感じです。

昔から「これじゃいかんだろ」という声は、財界から、また教育界からもちょくちょくありました。「より考えられるような」とか「より、論理的能力を」など、現行の記憶主義的なカリキュラムでは、産業が立ち行かないということで、教育改革を求めていました。

しかしながら、「ゆとり教育」の失敗から、元のさやに戻ったり。最近では、英語教育を早めたり、プログラミング教育を義務化したりなど、いろいろ変化はさせています。

もちろん、これらに対する批判もありますが、今回は、もっと奥深い部分といいますか、根本がわからなければ、良い方向に変わらないのと、さらに余計な仕事が多くなるということを指摘します。

そもそも、テストの結果だけで、理解しているかどうかの判断は、まちまちです。もちろん、一つの基準にはなりますが、日本のように、1次試験で選抜し、とにかく難しいだけの2次試験で合格者を絞る、という形だけで、学生を選ぶのはレベル・質とともに高い大学教育へ、導きづらくなります。

一方で、アメリカでは、いくつもの側面から、「この学生が、うちの大学で良く学んでくれるかどうか」という形で合否を決めます。

そのため、基本学力を、テスト業者が提供している試験結果から、勤勉さを高校などの成績表から、人間的信頼や態度を推薦書から、また、社会や公共に関する関心度を、ボランティアやインターンシップなどで評価します。

ここで勘違いしてほしくないのが、上の基準で全てが決まるわけではありません。これは、あくまで合否です。実際は、大学に入ってきちんと勉強し、さらにそれなりの成績を取らなければ、退学させられるのです。

そもそも、教育は、連続的に経験し、教えられて、また、周りに教えたり、自己実現したりして、自分の中で育てていくものです。それを、1回の試験だけで全てを決めようとするところに間違いがあるのです。

ですから、大学受験の問題を変えただけで、すべてうまくいくという安易な考えでは、教育の質を上げることはできないと認識することが重要になります。

変えることは悪くはありませんが、変化を成功に変えていくには、連続的な試行錯誤と不断の努力にあります。また、1つや2つの仕組みを変えるだけでなく、時間的に続いていくことを想像しながら設計しないといけません。

また、社会全体にある程度、選択の自由など、個人にあった教育方法を選べることの許容も大事になると思います。(もちろん、何事も行き過ぎや放置するのは、さらなる問題を生みます)

もちろん、アメリカの教育システムのすべてがうまくいってはいませんが、日本のような学生のことを考えていない自己満足的な政策の設定や、それに伴う強制は、残念ながら、何もよい方向に変えることはできないと思います。

大人のための家庭教師

 

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