学校で習わない事実!数学と物理の違いって知っていますか?

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英語と日本語(国語)の教科の違いは皆さん、ご存じでしょう。しかしながら、数学と物理の違いというものは意外と分かっていないんではないでしょうか。

端的に言えば、物理学は科学になります。しかし、教科書をのぞくと、数式が羅列されていて、問題を解く方法だけ見ると、数学とほとんど変わりません。

したがって、意外と大人の方でも、正確な違いや数学と物理学の関係性を説明できない人が多いようです。これは、学校で教えていないのが原因だと思いますし、受験科目のうちの一つであれば、そこまで知る必要がないと思われているかもしれません。

他にも、物理学は難しいので学校で教えなくなる傾向があったり、ノーベル物理学賞も、日本人が取ってないと一般のテレビで報道すらしないというのを見ても、そもそも一般の理解がないという現状がわかるでしょう。

それでは、物理学と数学の違いは何なのでしょうか。数学は論理世界への探求で、物理学は、自然世界の探求する学問です。

「そんなことはわかっている」という人も多いと思います。それでは、もう少し掘り下げてみましょう。数学というのは、自然で何が起こっているのかはどうでもよく、論理的であるかどうかに興味があります。

その論理を展開していくにつれてあるルールが見えてくると、それを証明します。このように、論理の世界を広げていくというのが数学の役割になります。論理的で緻密であることが求められるのですが、人間の住んでいる世界との整合性は関係ありません。

一方で物理学は、自然の反応(実験結果)をもとに、どのようなメカニズムをしているか解明する学問です。当然、その全貌を明らかにすることによって、理論が構築され、その理論から、実験結果を一般的に予測できるかどうかが役割になります。

したがって、物理学は、たとえ数学的に過去の実験を説明できても、未来の実験結果を予測できなければ、その理論は淘汰されます。物理における決定的な証明は、数学的なものではなく実験結果なのです。

ですから、物理学を数学的に証明するというのは無いんですね。意外と皆さん、この部分を勘違いされています。もちろん、物理学の一部を数学的に定理化して証明することはありますが、自然のふるまいそのものを数学的に証明することはできないということです。

当然、数学的な考察が物理学を発展させたことも歴史的にありますし、物理学で使っていた概念を数学化したものも多々あります。ただ、役割の違いが分かっていなければ、誤って利用したり、意味のない議論になってしまいます。

現在の日本教育では、歴史的な役割という側面で教科を教えていません。これは、受験でより多くの点数を取ることが社会的な目的になってしまっているからでしょう。

未来のための教育をするという視点から改革していくには、単なるカリキュラムの変更ではなく、人類が築いてきた知識と知恵に対する尊敬や感謝がないと根本的に進まないかもしれませんね。

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学歴フィルターから見える、日本の教育と社会の問題点

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この間、公務員や企業リクルートにおける、学歴フィルターに関しての記事や動画を見ました。その一部始終と、それに関連する日本とアメリカのやり方を対比したいと思います。

企業など、履歴書で選別する場合は、やはり、学歴フィルターがかかるとのこと、理由は応募者が多い場合、偏差値の高い大学や、コネクションのある大学の学生を選ぶ傾向があるようです。

一方で、公務員は、独自の試験があって、そこから選ぶので、それほど学歴フィルターがかからないようです。そういう意味で、最近は、企業も独自試験によって選ぶ傾向にある、と説明されていました。

あと、国家公務員の出身校が1つか2つに集中している傾向があるので、学歴をすべて隠して試験や面接を受けるようにしたたらしいですが、それでも、合格する出身校の割合は、ほとんど変わらなかったそうです。

ここまで聞くと、やっぱり有名校出身の人たちは優秀ですごい、となると思います。確かにそういう側面があるのは間違いないのですが、私の感覚からすると、日本の公務員などの組織の考え方がいかに画一的になっているか、を問題視してしまいました。

独自試験に関しては、アメリカの有名企業も実施しているようで、それによって、必ずしも有名大学出身者が選ばれるわけではないようです。つまり、現状に即して柔軟に効果的に選んでいるのです。(もちろん、すべての企業ではないですよ)

日本でも、「個性を生かす」とか「オンリーワンの才能を伸ばす」ような教育などと言ってはいますが、現実は、画一的に「きちんとした、お利口さん」しか選べないような状況なのです。まさに建て前と本音でしょう。

昔、アメリカで、私の学生が、ある有名研究所のインターンを希望するために、推薦書を頼んできました。世界中の応募者、約1万人の中から、彼が選ばれたんです。これは、彼の所属する学部も歓喜していたようです。

その後、彼から直接話を聞いたのですが、研究所側からすると、単なるお利口さんの学生より、何かしらいろいろな経験を乗り越えてきた人を選びたかったそうです。

確かに、彼は、高校を途中でやめ、しばらく親の車整備の仕事を手伝いながら、ある日突然、大学進学を決めた感じの人でした。私の授業でも、結構、苦しんでいたようですが、あきらめず、1年経つ頃には、理解してテストに望めるくらいになりました。

日本ではどうでしょうか。実は、日本でもそういう美談はあると思います。例えば、この間、亡くなった野村克也さんは、このように人を見て、育てられたんでしょう。

「野村再生工場」といわれ、うまくいかず、くすぶっていた選手を見事に再生してきたところからつけられた名称です。おそらく、野村さんは人を表面的にではなく、本質を見ながら、人というのは変わっていくものだとわかっておられたんだと思います。

しかしながら、一般的にはどうでしょうか。テストで点数を取るだけの努力をして、いかに上の人に受けいれてもらえるかしか考えていないように見えます。このように偏差値や大学名を信仰しているのを見ると、部外者から見ると、まさに教育カルトにしか見えません。

単なるテスト主義ではない、教育から見えてくる、組織、社会、そして人間というものを、じっくり考えてみてもいいかもしれないですね。

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