Thank you. に You are welcome. って言っちゃいけないの?英語のニュアンスの大切さ

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この間、デイビッド・セイン氏の書いた「日本人のヘンな英語」という本を買って読んだのですが、いろいろ日本人が勘違いしやすい表現など面白く書いていたので、私自身の経験から関連事項をいろいろ議論してみたいと思います。

日本語でもそうですが英語も同じ内容で複数の表現があります。例えば、「ありがとう」であれば、Thanks, Thank you, Thank you very much, I appreciate it, などありますが、基本的には、右に行けば行くほど丁寧な表現とされています。

ただ、注意しなければいけないのは、状況や、発声、表情などにより、同じ単語でも皮肉に聞こえたりするようです。これには答えはないとのこと。人によっては、お礼に「I appreciate it.」など使われると重く感じたりもするようです。

また、感謝に対していう言葉「どういたしまして」にも複数あって、You are welcome, No problem, No worries, Don’t mention it, My pleasure, Anytime, Sure, Thank you など多くの表現があります。

この用法に関してはアメリカ人の中でも論争があって、ある人は、「Thank you. に対しては、You are welcome. が正当な返事でしょう、No problem. なんて違うでしょう!」という人もいれば、「You are welcome. は半分死語のようで堅苦しく聞こえる」という人もいます。

(あるネイティブがいうには、フォーマルな状況では「You are very welcome.」とか、「It was my pleasure.」などの表現が好ましいとのこと)

若い人だと、No problem、や Sure なんかが多いですね。また、Anytime も使われますが、「いつでも頼んでいいですよ」みたいなニュアンスです。

まぁ、どれが正しいというのではなく、人によって印象がかわったり、時代によって使われなくなったりと、生きている言語にはありがちなことです。日本語にも、はやりすたれがあったり、人によっては好き嫌いがある表現などあったりで、臨機応変に単語を使っているはずです。

挨拶に関する単語では、Hey、Hi、Hello、の違いを質問したことがあるのですが、人によっては全部同じニュアンスだといってました。他の人によれば、Heyはやや砕けた感じで、Helloはどちらかというとフォーマル、Hiはその中間のようなニュアンスという人もいたので、単純にどれが正しいかは言えないようです。

こう考えると、語学を学んで実践するというのは、どう伝わるか、どんなニュアンスなのかを人によって臨機応変に感じたり、表現しなおしたりというのが醍醐味なんでしょうね。

アジアにおける英語の教育はどちらかというと、暗号の解読、または、暗号の作り方みたいに終始していて、正しいか間違いかだけにフォーカスしすぎているかもしれないですよね。もちろん、テストを中心とすればある程度は仕方ないんですけどね。

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最近はやりのSDGsの手法と教育との関係を考えてみました

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SDGsとは、「持続可能な開発目標」の英語の頭文字をとったものになります。2015年に国連で採択され、これから10年から20年かけてより良い地球環境や人類環境の実現を目標としています。

考え方としては、決して目新しいものではなく、環境や人権などのバランスの取れたアイデアをもとに、社会の一部だけに負担をかけることなく、持続可能なシステムを構築していくことを再確認、かつ、再構成しているように見えます。

私はSDGsの専門家ではないのですが、教育に関してはそれなりに専門なので、SDGsにおける教育とはという観点から議論してみようと思います。

SDGsには17の目標があり、その一つに「質の良い教育をみんなに」というのがあります。もちろん、持続可能で人権的でもあり、公正なシステムで、それを実現するとなれば、そう簡単ではないでしょう。

まず、現段階で教育がSDGsに見合っているかと言えば、そうではありませんね。質の点でも地域や教師によってムラがありますし、日本をはじめ、アジアの教育は、点数主義、受験主義のもとに何を学習しているか本当の意味で理解していない人が多いという現実です。

アメリカでも問題があり、学校は原則、放任主義で、できる生徒とできない生徒の格差も助長されますし、お金持ちであれば恵まれた教育が受けられるという、平等性に反するような状況にもなっています。

また、持続可能という点から見ると、日本の教育は、「持続可能」というよりは、「現状維持」することによって、現在の状況からかけ離れたことを続けています。はっきり言って「反SDGs的」な行為です。

ざっくり言えば、日本の場合、戦後から基本的には教育方法はほぼ同じです。当時は素早く正確に仕事が行える人たちを首都東京に集めて、そこで稼いだお金を地方に回してインフラを発展させていきました。

まさに受験や資格によって選ばれるのです。当時は、そういう「優秀な」人たちのヒエラルキーがうまく働いて、高度経済成長期を作ったのです。

ただ、そういう人材や社会システムが時代を経て飽和してきているのにも関わらず、ほとんど同じ価値観で教育の護送船団を今まで行ってきたのです。

もちろん、それではいけないと当時の経営者や教育者が、ある種、持続可能で現状を打破できる教育法を行うべきということで、「ゆとり教育」を行ったのです。しかしながら、それが失敗した理由は、教師がそのような環境で教える訓練をしていない、というのと、メディアが日本人のPISA(学習到達度調査)の点数が落ちたと大々的に報じたことによって、すべてが終わりました。

実は、教育とそれを取り巻く環境がSDGsから、いまだにかけ離れていることに気付いている人たちが少ないのが重大な問題なのです。持続可能というよりも世代的な実存に基づいた右往左往とでも言いましょうか、それが行われている状態です。

SDGsが流行って、形だけでもそういう方向に行くのは、悪くはないのですが、根本的な考察ができないと、単なる流行りで終わるか、ゆとり教育のような失敗の繰り返しになるのでしょうね。

私も教育に関しては、何十年も前から批評しています。もちろん、傍観者ではなく、本当の持続可能な教育を目指して実行していくことに努めております。

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大人でさえ勘違いしている科学・数学の概念、3つのこと

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これから書くことは、あげ足取りとかではなくて、ちょくちょく世の大人の方から聞くようなことです。

別に中学校までしか出ていないという人たちではなく、それなりの大学を卒業している人たちの間でも交わされている勘違いです。

まず一つ目は、「問題には必ず答えがある」という勘違いです。前の記事でも書きましたが、真実よりも答えが知りたいのと同じで、これも受験主義の欠点になるのですが、答えがある前提で行動したりする点ですね。

受験用の問題は答えがあるようにアレンジされています。ただし、条件などが変わると、難問になったり、現在の知識では解けないものもあります。

実は多くの科学的な現象や数学的な問題は未解決であるのです。また、複雑であればあるほど、簡単な「答え」がでない時もあります。

よく、テレビや新聞でもそうですし、政治家などの行動原理もそうなんですが、「今の状況において、一つの答えを求めすぎ」というのが目立ちます。

複雑であればあるほど、計算通りにいかず、想定外な結果に出くわします。それなのに、「お偉いさん」か誰かの一声だけですべてが決まり、そのあと、状況が変わっても行動が変えられなかったりするのは、状況判断ができず、問題と答えが1対1で対応して、それ以外考えられないと思っているからなのです。

2つ目は、「数学や物理(科学)の問題を解くのに必ず公式があって、それに当てはめれば答えが出る」という概念です。

これもある大人の方から「この問題の公式を導いてほしい」という依頼から気づいたのですが、実は公式のない問題設定のほうが多い、というのを知らない人が多々いるような気がします。

特に科学の問題で公式があるのは、きわめて単純な状況だったり、何らかの対称性がある場合くらいです。もちろん、何年も苦労して導いたような式などもありますが、実際解くとなると、近似やコンピュータなど援用したりしないと解けないもののほうが多いのです。

3つめが「自然現象が数学によって証明される」と思っている人が多いというものです。自然現象は実験によって証明されるもので、数学的によって「証明」はされません。

これも以前の記事にありますが、数学と科学の違いが分かっていない人が多いのが原因です。確かに、自然現象は数学的であることは経験的にわかっているので、科学現象を数学的に定式化するのに成功しています。しかし、これは数学的に科学を証明しているのとは全く違います。

実は、この勘違いはテレビでも聞いたのですが、それを言った人は、偏差値の高い大学の理系卒ですから、根深いものがあるのです。

もちろん、人類は試行錯誤を続けてきていますし、勘違いや間違いは成功したものの数の何倍にもなるでしょう。私も間違えないとは言いませんし、何でも知っているわけでもありません。

ただ、ここで指摘しなければいけないのは、これらの勘違いが大人にまで広がり、社会全体の傾向だとしたらどう考えるべきでしょうか?

私の考察によると、これらの勘違いが続いているのは、明らかに現在の教育の問題だということです。ある高校教師のブログなどで見たのですが、「物理学を履修する生徒が減っている、理由は受験科目として必須であるところが少ないからだ」と。

結局、小中高で学んでいる内容は、受験にあるかないかが重要で、その本質的な内容が全く伝わっていないというのが現実なのでしょう。それをずっと大人になるまで、また、なってからも引きずっているというのが、数学や科学に対する認識違いを生むのです。

教育というのを考えるにあたって、改革や良質さを世間では言いますが、いろいろ根深い問題があるということを認識し始めることも重要なのではないでしょうか。

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日本人は真実を求めたい、のではなく、答えを知りたいだけなのでは?

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テレビや新聞、ネットや周りの人たちの言動をよく観察すると、多くの日本人は、「真実を知りたい」と言いながら、実は真実には興味がないのではないか、と思うようになりました。

まず最初に「真実」とはなにかです。真実というのはいろいろな方法で徐々に近づいていくもので、必ずしも「わかっている」ものではないのです。

状況から「そうではないか」というように仮説を立てながら、また、さらなる情報を集め、実験や計算などを繰り返しながら全貌を映し出していく作業なのです。

その過程で簡単に判断したり、安易な手法で無理やり真実を作り出すようなことをしてはいけません。状況によっては、合っているのか間違っているのかさえ判断せずに見守ることをしながら、チャンスがあれば真実に近づいていく感じです。

まさに、数学や科学の世界では、わからないものに対してこのようにアプローチしながら、真実(またはその一部)を知ることになるのです。

しかしながら、多くの人たちは、「真実を知りたい」と言いながら、「誰か答えを教えて」ということを平気でやっているのが現状です。

これは真実ではなく「答えを教えてほしい」というだけで、安易な解答を得て溜飲を下げているだけなのです。

質問するときもそうですが、本来、質問は外堀を埋めていきながら、少しづつ真実を暴き出すのがポイントです。

それが分かっていない人は、答えを求めるように「実際やったのですか、やらなかったのですか」とか「あるんですか、それとも、ないのですか」というように質問します。

これで、無理やりその人に都合の良い答えを引き出すと、冤罪になったり、様々なトラブルを生むようになります。

よく考えると、いままでの教育が原因なのではないかと思います。学校の先生から問題を出され、その答えは何かを示されるだけの授業だとか。受験で合格するには、どういう問題にどのような答え方をすればいい、など、物事の状況はさておいて、答えさえ求まれば、それでよいという社会風土を作りすぎたのではないでしょうか。

その教育法は目的が分かっていれば効果絶大なのですが、一方で「洗脳」に使われるような手法なので、気を付けなければいけないんですけどね。

教育法は長所と短所があるので、今までの教育のすべてが悪いとは言いませんが、いまのいままで、うまく修正できなかったのは問題といえば問題でしょう。

今回は多くの日本人が誤解している、真実と答えの違いに関して教育の側面から議論してみました。

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