タイトルを読むと、ややこしくて、眠くなるのかな、とお思いでしょうが、極めて身近なお話です。
教育というのは、その国の文化や価値観が動機になっていることが多く、それゆえ、他国の教育法をそのまま導入してもうまくいかない、というのをいろいろな視点で議論してみたいと思います。
エマニュエル・トッドさんをご存じでしょうか?彼はフランスの歴史人口学者で、各国の家族の在り方によって社会や歴史を分析されている人です。
解説書など読んだことがあるのですが、非常に興味深く、なぜ、ソ連が崩壊したかなど、家族に関する視点から説明しています。
ざっくりいうと、日本は「直系家族」で親が子に対して権威的で兄弟間は不平等となっています。(長男の地位がより重要など)
アメリカ(特にアングロサクソン系)は、「絶対核家族」と言って、親子は独立していて、家族全般の価値が自由放任的、個人の価値観を主体にしている、というものです。
彼の論点は、国全体の傾向や文化というものは、その国の個々の家族からきているものなので、簡単に変わるものではなく、国の意向もそれに従って行くということです。
実は、この家族という視点でいうと、その国の教育のやり方にまで影響を与えています。ここからは私の経験からの話になります。
日本は教師に関する権威、つまり、上に対する服従というのが絶対視される傾向にあります。そのため、文科省なり上から与えられるカリキュラムをそのまま受け入れ、試験というものを通じて、それを完璧に体得することが目的となります。
一方で、アメリカは、勉強したければいつでも勉強できます。また、準備が不十分であれば、子供でも1年待って学校に入学させるなど、個人を尊重します。また、アイデアがあれば、いつでもどこでもビジネスができる風潮ですし、家族も社会全体もそれを優遇します。
みなさんは「そんなことは知っている」と言うでしょう。しかし、教育法となるとこのような知恵は完全に無視して、法律的に無理やり導入しようとするのです。しかも見事に失敗していくのです。
日本の場合、試験ばかりで凝り固まっている人材だと先行きが不安ということで、もっと自由で発想豊かな人材をはぐくむ教育法を導入してはと、いわゆる「ゆとり教育」が始まりました。
本来、欧米的な教育の良いところを真似したかったのですが、「直系家族」である日本が、自由な形で教育はできないのです。必ず、親や先生の言うことを聞いてしっかり「身に着ける」ことができて教育の成功としている価値のもと、ゆとり教育がなじめなかったのは当たり前なのです。
それでは、アメリカはどうでしょうか。かつてのアメリカには広大な土地と資源があり、それを自由に使えていた時は自由な教育で活性化していました。
しかし、時代が進み、グローバル化の中で、安くて良質な輸入品が入ってきたり、優秀な外国人などがアメリカ人の地位を脅かすようになってきて、アジア流の教育方法を導入することになりました。
いわゆる標準テストによって理解度を確認しながら学力を上げていこうと、日本をはじめアジアの教育の良いところを真似しようとしたのですが、自由や個人のやり方を尊重する「絶対核家族」なアメリカで成功するはずがありません。
その後、「標準テストに基づく教育には反対」する教師や教育学者がアメリカで増えていったのも事実です。(日本人からするとテストに反対するなんて信じられないと思いますが、これも価値観の違いです)
教育というのは制度を変えたり方法を導入するだけでうまくいくものではありません。もちろん、お金をかければ一時的には良くなるでしょう。しかし、長い期間で考えるのであれば、文化、価値、社会的なものを考えなければ教育というのは成功しないと思います。