今回はアメリカ人特有の価値観についてお話します。日本人にとっては「なぜ」というところもありますが、理由が分かれば理解できると思います。
もちろん、すべてのアメリカ人がそうだとは言いませんが、やはり、社会全体に考え方の傾向があって、潜在的な行動は似てくるというのも事実です。
まず、アメリカ人は「権力は強ければ必ず腐敗する」という考えがあります。もちろん、権力がないと実行力もなくなりますし、リーダシップも取れないので、権力は与えても、任期は制限しています。例えば、大統領や州知事は、最長8年が任期です。
やはり、権力が強く、しかも長い間続くと、いろいろなしがらみや、利権などが生まれるからです。また、人間ですから常に完璧でもないですしね。とにかくいろんな意味で、抑制と均衡というものを考えるのがアメリカ人です。
教育の場でもそうですが、教授は学生に何を教えるか、どのような評価をするか、また、その基準はどうなのかを学期が始まるときに説明します。逆に学期末には学生がその教授を評価します。これも抑制と均衡です。人間の世界に「絶対」はないから、ということです。
一方で日本では、政治権力において明確な任期というのがない場合が多いでしょう。党によっては定めていますが、知事なんかは十数年も続けているようなところもあります。
ほかにも、政権与党が同じ党で何年も続くというのも一例ですね。「この党しかうまくやれないでしょう」という意見もありますが、やはり長く続くといろいろなしがらみができて、結局、一部の人たちしか潤わなくなっていきます。
基本的には、日本では権力構造と政治システムに関して欧米のような歴史がないので、上のような考えになっていくのでしょう。また、日本はどちらかというと現人神(あらひとがみ)信仰といいますか、人をあがめる傾向にあるのも原因です。
アメリカ人、特にキリスト教徒であれば、人間は完ぺきではないから、神を信仰します。つまり、自身が倫理的であるかどうかを神にチェックしてもらう感じです。ですから人間に対する評価は是々非々で、よいものは良く悪いものは悪いと言えます。(もちろん、全員ではなく、一部の人たちは極端に感情に任せて批評しますが)
日本人の「人を信じよう」とする良心は素晴らしいのですが、裏切られた時の反動もすさまじいので、システム的に担保するような考えも必要になってくるでしょうね。
もう一つは、テストに対する考え方ですが、欧米ではテストは万能ではない、という考えです。とくにアメリカでは、テストだけで(またはテストを基準に)教育することに反発があって、教育において教える自由や学ぶ自由を奪っているという理由で批判することも多いです。
いわゆる、標準テストといいますか、そういうもので、すべて規定されるのがアメリカ人の価値として合わないようですね。
では、アメリカではどのように人を評価するかといいますと、経験や結果で見ています。何かをやった経験があれば、すぐにできるでしょうし、あることを成し遂げていれば、それに近い他のこともできるのではという考えです。
一方で日本では、テストを照準に勉強しますし、資格試験もそうですが自身を定量化しやすいので、テストというのを重宝しているように見えます。
これも、社会的な価値観でしょう。テストがあって、その過去問などを解きながら、しっかりマスターできることに本人も社会も満足し、実際に功を奏しているからだと思います。
もちろん、どちらのやり方も長所と短所があります。前にも言いましたが、価値観が違えば、導入するのに失敗したり時間がかかることもあるということです。逆にどちらの価値もやり方もわかっていれば、欧米流、アジア流のいいとこどりもできるということなのです。