学問は知識のつぎはぎではないということ、受験システムの功罪とは

大人のための家庭教師
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最近、いろいろな話を聞くのですが、学問の本質というか、人類が積み重ねてきたものに関して誤解されている人が多いような気がします。

特に日本では高校・大学受験をはじめ、資格試験など、試験を主体に知識を取得していくのですが、それによって、逆に知識が断片化されているようなのです。

例えば、大学受験の勉強になれば、どの科目で受験できるのかで基準を決めたり、つぶしのきかない科目であれば、そもそも学校で選択しないなど、いわゆる、知識が切り売りされている感じです。

また、大人でも、資格試験に合格はしたけれど、用語や解き方の丸覚えをしただけで、意味が分からない、など知識につながりがない状態でいる人が結構多いことにも気が付きました。

本来、学問は人類が「なぜ」と興味を持ったものに対して真理を追究してきた結果であり、わかっていること、わかっていないこと、また、なぜかはわからないけれど、こうするとうまくいくこと、などが混在しているものでもあります。

そのなかで、研究が進むごとに、他の分野とのつながりが見えたりしながら、学問の妙というものを認識してきたものなのです。

一方で、それぞれの科目(分野)はそれぞれの哲学や、役割を持って発展して来ています。つまり、一つ一つの学問が違う視点でものの見方を提供してもいるのです。

高校までの知識はそのなかで、ほぼわかっていることを元に作られたものでしかないのにもかかわらず、受験システムは、それさえしのげば人生の勝者、みたいに扱ってきているのが事実です。

今の教育では残念ながら学問の発展に重要なことを教える機会が少ないように思えます。

試験にさえ合格できれば、だけで勉強することによって、多くの重要なことを学べずにいたり、結局、時間の無駄となるような状態をつくっています。

こういう点で受験というのは、人生や知識をぶつ切りにしてしまうという罪な部分があると思います。

試験はあくまで手段であり、学習は長い期間で行われるべきだと思っています。もちろん、学校に行かなくても勉強はできますが、知識や人類の知恵に感謝する態度も持ち合わせるべきでしょう。

では受験システムの「功」にあたるのはどういうところでしょうか。受験は、半ば強制的に多くの問題を解かせる時間や経験を与えている点では、そういうストレスに耐えてきたという自身になると思います。

もちろん、海外に留学したり、自分で一からなにかを作るなどの苦労するような経験も同様で、自身を訓練するという点でよい方法ですし、社会に出たときに根気よく問題に取り組む地盤ができるはずです。

何のための学習なのか、何のために学問に分野があるのか、今一度、考えていただけるとありがたいと思います。

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