より良い教育に「聞く耳を持つ」ことは重要なのか?学生を中心とする教育の誤解

大人のための家庭教師
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アメリカでは、学期末に学生がクラスの教授の教え方や態度などを評価するのが定例です。

これは教授側が持つ権力が乱用されないようにしているからです。この評価によって教授の給料などに大きく影響はされないですが、例外的に良ければ、出世などにプラスに働いたり、よほど悪ければ、契約解除みたいなこともあります。

学生が満足する授業を行う、というのはひじょうに大事になりますが、ただ単に学生の言っていることを聞き入れることが学生のことを考えた教育とは限りません。

実際、学生に「どうしたらよいか」「学校にどうしてほしい」と直接聞いても、有用な情報はそれほどないというのが実感です。もちろん、聞くこと自体悪いことではないですし、聞き入れる側が正しく利用できるのであれば、よい方向に行くと思います。

しかし、ほとんどの学生は20歳前後であまり経験や知識はありません。当然聞く耳を持ったとしても、彼らが言うことは「もっと問題を簡単にしてほしい」「教える量を減らしてほしい」などの回答が多くなります。

概してアメリカの教育改革が失敗したというのは、このような、間違った意味で聞く耳を持った結果、いわゆる「楽」な方向に行ってしまったということです。

あとは悪循環で、「楽」な教育であれば、教師の基準も下がって、給料も安くなります。

教育というのは、完全な自由競争に入ってしまうと、奇をてらったような、特殊な教育法で生徒を集めたり、高度で質は高いけど、お金持ちしか受けられない教育になったり、いろいろなひずみが出ます。

一方で、完全に平等にすれば、教育の質や基準が下がって行く傾向にあります。ですから、安易に国のお金を注入するのも問題だと指摘する学者もいます。

我々は、アメリカの大学で教育の改革をすすめたことがあります。この経験からひとつの解決法を提示してみたいと思います。

我々は、直接、学生に答えを求めるのをやめて、こちらが用意した教材や、教授法に対して学生がどのように反応したかを観察しました。それをもとに修正したり、また、観察しなおしたりして教材や教え方をより良い形にしていきました。

ここで、重要なのが、ひとりひとりの教師のやり方などは尊重して、基本的には、自由な権限を与えることです。(もちろん、法律的・道義的に問題あることをするのは例外です)

単に修正するというよりは、議論を重ねていろいろなケースを理解してもらうことに専念してもらいました。

細かいことはほかにもありますが、このようなことを続けていくと、本当に教えることに興味がある教師は、どんどんモチベーションが上がっていきました。

教師をマネージメントする側は、彼らから出てくるアイデアから必要な教材を作ったり、購入したりして、改善していくことができ、教わる学生も授業の理解が進むと感謝されました。

やはり教育というのは「人」が大事です。教える側も「理解してほしい」と思う気持ちが大事ですし、学ぶ側も「身に着けたい」という思いがあるから成り立つものです。

そういう相互作用を良い形で維持するのが教育機関なのです。単に点数を上げるために余計なこともしないという学校もアメリカにはありますが、それがよい教育なのかは疑問が出るでしょう。

もっと、教育そのものを社会が理解できるような環境ができるとよいと思います。

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カルト宗教が嫌いな日本人、唯一、信じて疑わない悪しき宗教とは?!「試験主義教育」

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試験に関するイメージはどのようなものでしょうか?学校に入るための入学試験、仕事のための資格試験など、さまざまなものがありますが、日本をはじめ、アジア各国では、かなり受験的な競争が過熱しているのも否めません。

試験のために一生懸命に勉強して、そして合格すればお祭り騒ぎ、という一連の過程、どう思いますか?これに乗じて、教育関連ビジネスも過熱して、試験対策が進み、試験の問題もどんどんエスカレートしています。

このような制度がつづくと、「この問題に対して、このように対応すれば、点数が稼げる」などのように、いかに点を稼ぐか、また、いかに合格するかが目的となり、そもそも何のための学習かわからなくなってきています。いわゆる、内輪だけの基準で一生懸命競争している感じです。

実際、中学や高校レベルの塾や家庭教師から、問題の解き方を教えてもらい、その類題をひたすら解く、ということをやっていた学生に会ったことがあります。その手法で高校の試験はうまくしのいでいたようですが、こちらから見ると、理解して問題を解いているようには見えませんでした。

もちろん、個人差はあると思いますが、このような教育を受けてきた学生は、学習内容をきちんと理解している人が少ないのは確かです。点数を取る方法だけ思い出して、後は思考停止しろと言われてきたのですから、当たり前と言えば、当たり前ですが。

そもそも教育的な観点において、試験とは何なのでしょうか?試験は教育に必要不可欠なのでしょうか?試験の結果が人の優劣を決めるのでしょうか?

小中高、一貫している教育課程において、きちんと教育自体が管理されていれば、フィンランドのように試験がなくても学力を上げることができます。

一方、資格試験など業者が提供している試験に対しては、必要最低限の知識や重要事項を知っているかのチェックになりますので、仕事における最低条件として必要なものであれば試験の実施に問題はありません。

つまり、テストを与えることが教育でもないですし、テストの点数が必ずしも理解力を適切に測ることができるとも限りません。状況において、必要な手段でしかないことが試験なのです。

そういう意味で、日本では試験というものを誤って認識し、誤って利用しているのではないでしょうか。

実は、初等教育において基礎的な知識や計算方法をテストなどを通じて速く正確に習得することに、一定の効果はあります。しかし、年齢が上がるにつれて、より高度な洞察や議論、また、不確定事項の決断などに関しては、試験だけで理解させるのは難しいのです。

テストというのは、基本的な知識があるのかどうかを問うものです。しかし、実際の能力を身に着けるには、経験や訓練が必要です。よくわかっている教師の下で一定期間学ぶというのは、試験以上に重要な経験になるのです。

また、アメリカのように、ある一定程度の知識があるかどうかの指標として、テストのプロ(業者)が作った試験を受けさせるところもあります。したがって、アメリカでは試験の点数以外で、推薦書や課外活動など、いくつもの評価規準利用しているのです。

それでは、日本のように試験の点数や結果だけを「信仰」してしまうやり方の弊害は、どのようなものがあるでしょうか?

まず、一つ目は、学問というものが学校に入るため、または、世の中に認められるための手段でしかないと見てしまうことです。志望校の受験科目に無ければ、勉強しなくても良いとか、比較的難しい数学や科学などの教科を習う意義を考えなくなります。

また、早く正確に答えを出すことが目的となりますので、それ以外の考えに及ばない、と言いますか、概して思考することを軽視してしまう傾向が出てきます。

一方で、社会全体の安易な考え方を変えないといけないと思います。「変えるの面倒だ」「上から言われたことをやってさえいれば楽だし」「波風立てて干されるのはいやだ」という事なかれ主義が社会を支配していては、悪しき宗教からのマインドコントロールから逃れられないのではないでしょうか。

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