日本は科学教育が進んでいるのか?本当は違う衝撃の事実

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「師匠、日本の科学技術の世界的評価や科学分野のノーベル賞受賞者が増えてきている、ということから、日本の科学教育は成功したと言えるのでしょうか?」
師匠「確かに、数学や理科系の教育を強化した結果であるが、日本人全体に科学リテラシーがあるかどうかに関しては、議論の余地があるかもしれん。」
秋山「どういうことですか?」
師匠「科学で成果を出せる頭のいい優秀な人は、一定量いる。それとは別に、市民の一般教養として、科学とは何か、科学的思考をもって批判できるか、というのが科学リテラシーじゃ」
秋山「このリテラシーは、いままでの学校の科学教育で習得できないものですか?」
師匠「日本では、どちらかというと、数学の教育に力を入れつつ、科学分野、物理や化学に人材を送っていた流れがある。それに加え、理系と文系と分けて、教育してきたために、初等・中等教育で科学的な見方を教えたり訓練する機会が少ない。いわゆる、科目別にエキスパートを育ててきたにすぎないのじゃ。」
秋山「なるほど。そうだとすると、たとえ科学者と言われる人でも、科学的な考え方ができているとは限らないのではないですか?」
師匠「その通りじゃ。細かいことや、数式をいじるのが好きだからやっているという人もいる。これはこれでいいんじゃが、世の中にある情報を、客観的に、事実に基づいて、適切に分析、議論ができない社会を放置するのは問題だろう。」
秋山「例えば、どのような事例が思い浮かびますか?」
師匠「例えば、数値が基準値を超えた、など、数値だけを信じて右往左往するのは、科学的思考ではない。」
秋山「数値は科学にとって大事ではないのですか?」
師匠「大事であるが、数値を得る以前の過程が分かっていなければ、意味がない。例えば、どのように測定したのか、どのように計算したのか、という部分じゃ。」
秋山「確かに、そうですね。実験値には誤差もありますし。。。」
師匠「つまり、数値の背後にある理論を議論できなければ、間違っているかもしれない数値を前に右往左往するしかない。よく聞くじゃろ、どっちを信じていいかわからい、とか。」
秋山「こういう部分は、この前、議論した偏差値教育にも問題があるのかもしれないですね。つまり、答えが合っているかどうかにしか興味がなくなる、という。。。」
師匠「うむ。それもある。点数主義の負の遺産が科学的思考を阻んでいる背景もあるようだ。」
秋山「もう少し、科学とは何かに関して教えてもらえますか?」
師匠「科学には、すべてを説明する義務はない。」
秋山「え!そうなんですか?」
師匠「証拠から論理的に推論していくこと、実験によって実証または反証しながら理論を構築すること、などが科学であって、人類のなぜに対してすべてを説明することが役割でない。」
秋山「なるほど。そこが哲学や宗教と違う部分なんでしょうね。」
師匠「あとは、予測可能である理論かどうかじゃ。説明はできても予測ができなければ、科学としては認められない。」
秋山「今日もありがとうございました。」
師匠「うむ。将来の発見や革新によって、定義などが修正されるかもしれないが、現在の基本的立場は、そういう感じじゃ。」

大人のための家庭教師

 

専門ノート:非線形システムにおける予測可能性に関しては、もっと議論を深めなければいけませんが、統計的分析やその他の数学的ツールによって、ある種の巨視的な物理量を予測することは可能で、必ずしも時系列としてだけの予測とは限りません。

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