より良い教育に「聞く耳を持つ」ことは重要なのか?学生を中心とする教育の誤解

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アメリカでは、学期末に学生がクラスの教授の教え方や態度などを評価するのが定例です。

これは教授側が持つ権力が乱用されないようにしているからです。この評価によって教授の給料などに大きく影響はされないですが、例外的に良ければ、出世などにプラスに働いたり、よほど悪ければ、契約解除みたいなこともあります。

学生が満足する授業を行う、というのはひじょうに大事になりますが、ただ単に学生の言っていることを聞き入れることが学生のことを考えた教育とは限りません。

実際、学生に「どうしたらよいか」「学校にどうしてほしい」と直接聞いても、有用な情報はそれほどないというのが実感です。もちろん、聞くこと自体悪いことではないですし、聞き入れる側が正しく利用できるのであれば、よい方向に行くと思います。

しかし、ほとんどの学生は20歳前後であまり経験や知識はありません。当然聞く耳を持ったとしても、彼らが言うことは「もっと問題を簡単にしてほしい」「教える量を減らしてほしい」などの回答が多くなります。

概してアメリカの教育改革が失敗したというのは、このような、間違った意味で聞く耳を持った結果、いわゆる「楽」な方向に行ってしまったということです。

あとは悪循環で、「楽」な教育であれば、教師の基準も下がって、給料も安くなります。

教育というのは、完全な自由競争に入ってしまうと、奇をてらったような、特殊な教育法で生徒を集めたり、高度で質は高いけど、お金持ちしか受けられない教育になったり、いろいろなひずみが出ます。

一方で、完全に平等にすれば、教育の質や基準が下がって行く傾向にあります。ですから、安易に国のお金を注入するのも問題だと指摘する学者もいます。

我々は、アメリカの大学で教育の改革をすすめたことがあります。この経験からひとつの解決法を提示してみたいと思います。

我々は、直接、学生に答えを求めるのをやめて、こちらが用意した教材や、教授法に対して学生がどのように反応したかを観察しました。それをもとに修正したり、また、観察しなおしたりして教材や教え方をより良い形にしていきました。

ここで、重要なのが、ひとりひとりの教師のやり方などは尊重して、基本的には、自由な権限を与えることです。(もちろん、法律的・道義的に問題あることをするのは例外です)

単に修正するというよりは、議論を重ねていろいろなケースを理解してもらうことに専念してもらいました。

細かいことはほかにもありますが、このようなことを続けていくと、本当に教えることに興味がある教師は、どんどんモチベーションが上がっていきました。

教師をマネージメントする側は、彼らから出てくるアイデアから必要な教材を作ったり、購入したりして、改善していくことができ、教わる学生も授業の理解が進むと感謝されました。

やはり教育というのは「人」が大事です。教える側も「理解してほしい」と思う気持ちが大事ですし、学ぶ側も「身に着けたい」という思いがあるから成り立つものです。

そういう相互作用を良い形で維持するのが教育機関なのです。単に点数を上げるために余計なこともしないという学校もアメリカにはありますが、それがよい教育なのかは疑問が出るでしょう。

もっと、教育そのものを社会が理解できるような環境ができるとよいと思います。

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教育は改革や自由化より、柔軟化すべき!各国の成功・失敗事例からこれからの教育を考える

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時代の変化によって「教育改革」というのは日本だけではなく、米国など多くの国で課題になっています。

日本では、もっと個別の能力を上げたり柔軟なカリキュラムから多彩な人材を生むべく、ゆとり教育にシフトしたかったのですが、思った通りにいかなかったというのが大方の見方です。

このように「思ったようにいかなかった」というのは日本だけではなく、アメリカも似たような事が起こっています。

今回は焦点を絞って、アメリカの教育改革の失敗からどう学んで、どのように良い形に変えていくにはどうすればよいか議論していきたいと思います。

アメリカでも日本でも同じなのですが、「他の国がうまくいっているから、その方法論をそのままやってみよう」という形で失敗しているようです。

ほかにも、何も考えずに「教育制度を自由化していろんなアイデアに補助金を出して淘汰させよう」というのも、あまりうまくいっていないようです。

前者で言えば、アメリカは数十年前、クリントン政権のあたりで、「東アジアの教育は成功しているようなので、彼らの真似をしよう」と教育改革を試みました。

その基本的な内容は、学校できちんと教えてテストを繰り返すというものでした。しかしながら、日本や韓国などではうまくいきそうですが、アメリカでは失敗しました。

いくつか理由があるのですが、まず、教師がそのようなカリキュラムで教えた(または習った)経験がなかったからだと思われます。実は、教師がどのように教えてどのようにテストを使って評価するかが分からなければ、効果的な教育ができないのです。

それに加えて、アメリカの公立学校の教師は日本に比べて従事しやすい職業、かつ、あまり給与も良くないために教育に対しての「忠誠心」も低いとも言われています。

つまり、教育カルチャーが違うので、そのまま持ってきても適用できなかったというのが教育改革には重要な観点なのかもしれません。

一方で、アメリカは初等中等教育に関しては自由で、親や家庭教師が家で教えるホームスクールも公的に認められていますし、公立校であれば高校まで無料で通えます。

また、職を変えるために大学に再入学も頻繁ですし、コミュニティカレッジのように必要な単位だけとるのも気軽にできます。

その分、高等教育(大学・大学院)の教育は世界的にも高度で、一般的に良い人材を輩出していて留学生も多いのがアメリカの教育全般の評価になります。

日本・アジアは小中高はきちんと教えていますが、大学ではきちんとした基準もないですし、画一的でそれほど競争力のあるような教育をしているようには思えません。(現在はすべてそうとは言いませんが概して…)

日本側からすると、アメリカのような自由で発想力のある教育をしたいのですが、これもいままでの教育文化から、なかなか教師や教授が順応できないというのが問題になります。

では、教育改革はどのようにすればよいでしょうか?他の評論家や自身の経験から、政府主導は失敗しがちです。理由は教育は時代によって内容や教授法が変わったり、効果がでるのに数年かかるからだと思われます。

政府ができるのは法律の変更と助成金を出すことなので、玉石混交とした応募者が集まって、全体を押しなべて評価すれば、平均以下の結果しか出ないというのが今までの結果でしょう。

ではどうすればよいでしょうか?やはり、自由化というよりは柔軟化していくことが重要になります。つまり、全部をいきなり変えることはせずに、うまくやっている教育組織や教育者を醸成できるような制度と、段階的な助成金によって地域の人とのかかわりあいから順応させるようにして新しい教育を創生していけばよいと思います。

そうすることによって選ぶ権利が保持されて、被教育者側も、うまくいかなければ変えたり、戻ったりする自由があれば、全体の環境変化にも対応できると思います。

日本は特に画一的に全員が右向け右のように制度を設定しなければいけないと自ら強制しているのが問題です。逆に、アメリカは自由すぎて、悪く言えば効果など吟味せず「適当」にやっていくような感じがあります。

どちらも良いところと悪いところがあるので、ある程度、俯瞰しながらどのようにやればうまくいくかという考える土台を社会や国が支えるようにしていけばよろしいのではないでしょうか。

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アメリカにおける教育問題、チャータースクールをめぐる初等・中等教育の改善とその闇

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チャータースクールとはご存じでしょうか?これはアメリカなどで採用されている制度で、志を持った教師や、親御さん、その他、地域の大人が集まって子供たちのために作る税金でまかなわれる学校のことを言います。

「でもそういう学校ならば公立学校があるのでは」とお思いでしょう。確かに、システムとして公立学校が全地域にあり、小中高と無償で通うことができます。

しかしながら、教師の質がまちまちで、地域によってはひどいところもあるので、じゃあ、そこの人たちでより良い学校を立ち上げるのであれば、それに国がお金を出しますよ、というのがチャータースクールです。

日本人の感覚からすると、2度手間といいますか、税金の無駄遣いにもなりそうですが、とりあえず、そういう制度がアメリカにはあります。

また、アメリカでは日本でいう「塾」という需要が少ないので、塾を経営する大きな企業もありません。まぁ、大学までの受験戦争自体ないからなんですけれど。

では、チャータースクールはうまくいっているのでしょうか。そういうところもあるとは思いますが、結構問題の学校が多く、ある教育の専門家は、頻繁にいろんなところのチャータースクールを批判しています。

とにかく、「こういう方法で学力が上がる」という安易な発想で教育しているところが多く、アメリカ的には「本当の教育」ではないという代物です。

ほかにも、教師は何も教えず、コンピュータの前に座らせてひたすら問題を解くということをやらせるようです。もちろん、テストの平均点は上がるのですが、これが教育なのだろうか、と疑問を持つ人も多いようです。

日本でも「生きる力」とか言われますが、それを教育の場で実践するのは、本当にそういうことをやってきた人でないとうまくできません。

また、特定のテストで点を上げたいのならば、そのテストの対策をすればよいだけで、それをもって良い教育なのかという疑問も出てきます。

どこの国でもそうですが、安易に教育の制度を変えたり、国がお金を出したりしただけでは、質の良い教育というのは続かないということです。

今の日本は点数を上げる教育は得意ですが、それが本当に未来の社会や国に役に立っているのかどうか精査するのも重要です。つまり、テストの平均点が下がった上がったで一喜一憂するような見方をしてはいけないのです。

また、教育とは何かということを専門家なども含めて社会全体が学んでいかなければ、これからも無駄なお金を使い続けることにもなるでしょう。

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日本人にはないアメリカ人特有の価値観、権力は腐敗する・テストは教育の自由を奪う

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今回はアメリカ人特有の価値観についてお話します。日本人にとっては「なぜ」というところもありますが、理由が分かれば理解できると思います。

もちろん、すべてのアメリカ人がそうだとは言いませんが、やはり、社会全体に考え方の傾向があって、潜在的な行動は似てくるというのも事実です。

まず、アメリカ人は「権力は強ければ必ず腐敗する」という考えがあります。もちろん、権力がないと実行力もなくなりますし、リーダシップも取れないので、権力は与えても、任期は制限しています。例えば、大統領や州知事は、最長8年が任期です。

やはり、権力が強く、しかも長い間続くと、いろいろなしがらみや、利権などが生まれるからです。また、人間ですから常に完璧でもないですしね。とにかくいろんな意味で、抑制と均衡というものを考えるのがアメリカ人です。

教育の場でもそうですが、教授は学生に何を教えるか、どのような評価をするか、また、その基準はどうなのかを学期が始まるときに説明します。逆に学期末には学生がその教授を評価します。これも抑制と均衡です。人間の世界に「絶対」はないから、ということです。

一方で日本では、政治権力において明確な任期というのがない場合が多いでしょう。党によっては定めていますが、知事なんかは十数年も続けているようなところもあります。

ほかにも、政権与党が同じ党で何年も続くというのも一例ですね。「この党しかうまくやれないでしょう」という意見もありますが、やはり長く続くといろいろなしがらみができて、結局、一部の人たちしか潤わなくなっていきます。

基本的には、日本では権力構造と政治システムに関して欧米のような歴史がないので、上のような考えになっていくのでしょう。また、日本はどちらかというと現人神(あらひとがみ)信仰といいますか、人をあがめる傾向にあるのも原因です。

アメリカ人、特にキリスト教徒であれば、人間は完ぺきではないから、神を信仰します。つまり、自身が倫理的であるかどうかを神にチェックしてもらう感じです。ですから人間に対する評価は是々非々で、よいものは良く悪いものは悪いと言えます。(もちろん、全員ではなく、一部の人たちは極端に感情に任せて批評しますが)

日本人の「人を信じよう」とする良心は素晴らしいのですが、裏切られた時の反動もすさまじいので、システム的に担保するような考えも必要になってくるでしょうね。

もう一つは、テストに対する考え方ですが、欧米ではテストは万能ではない、という考えです。とくにアメリカでは、テストだけで(またはテストを基準に)教育することに反発があって、教育において教える自由や学ぶ自由を奪っているという理由で批判することも多いです。

いわゆる、標準テストといいますか、そういうもので、すべて規定されるのがアメリカ人の価値として合わないようですね。

では、アメリカではどのように人を評価するかといいますと、経験や結果で見ています。何かをやった経験があれば、すぐにできるでしょうし、あることを成し遂げていれば、それに近い他のこともできるのではという考えです。

一方で日本では、テストを照準に勉強しますし、資格試験もそうですが自身を定量化しやすいので、テストというのを重宝しているように見えます。

これも、社会的な価値観でしょう。テストがあって、その過去問などを解きながら、しっかりマスターできることに本人も社会も満足し、実際に功を奏しているからだと思います。

もちろん、どちらのやり方も長所と短所があります。前にも言いましたが、価値観が違えば、導入するのに失敗したり時間がかかることもあるということです。逆にどちらの価値もやり方もわかっていれば、欧米流、アジア流のいいとこどりもできるということなのです。

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アメリカ、教育改革の失敗、エマニュエル・トッドの家族論と日米の教育比較

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タイトルを読むと、ややこしくて、眠くなるのかな、とお思いでしょうが、極めて身近なお話です。

教育というのは、その国の文化や価値観が動機になっていることが多く、それゆえ、他国の教育法をそのまま導入してもうまくいかない、というのをいろいろな視点で議論してみたいと思います。

エマニュエル・トッドさんをご存じでしょうか?彼はフランスの歴史人口学者で、各国の家族の在り方によって社会や歴史を分析されている人です。

解説書など読んだことがあるのですが、非常に興味深く、なぜ、ソ連が崩壊したかなど、家族に関する視点から説明しています。

ざっくりいうと、日本は「直系家族」で親が子に対して権威的で兄弟間は不平等となっています。(長男の地位がより重要など)

アメリカ(特にアングロサクソン系)は、「絶対核家族」と言って、親子は独立していて、家族全般の価値が自由放任的、個人の価値観を主体にしている、というものです。

彼の論点は、国全体の傾向や文化というものは、その国の個々の家族からきているものなので、簡単に変わるものではなく、国の意向もそれに従って行くということです。

実は、この家族という視点でいうと、その国の教育のやり方にまで影響を与えています。ここからは私の経験からの話になります。

日本は教師に関する権威、つまり、上に対する服従というのが絶対視される傾向にあります。そのため、文科省なり上から与えられるカリキュラムをそのまま受け入れ、試験というものを通じて、それを完璧に体得することが目的となります。

一方で、アメリカは、勉強したければいつでも勉強できます。また、準備が不十分であれば、子供でも1年待って学校に入学させるなど、個人を尊重します。また、アイデアがあれば、いつでもどこでもビジネスができる風潮ですし、家族も社会全体もそれを優遇します。

みなさんは「そんなことは知っている」と言うでしょう。しかし、教育法となるとこのような知恵は完全に無視して、法律的に無理やり導入しようとするのです。しかも見事に失敗していくのです。

日本の場合、試験ばかりで凝り固まっている人材だと先行きが不安ということで、もっと自由で発想豊かな人材をはぐくむ教育法を導入してはと、いわゆる「ゆとり教育」が始まりました。

本来、欧米的な教育の良いところを真似したかったのですが、「直系家族」である日本が、自由な形で教育はできないのです。必ず、親や先生の言うことを聞いてしっかり「身に着ける」ことができて教育の成功としている価値のもと、ゆとり教育がなじめなかったのは当たり前なのです。

それでは、アメリカはどうでしょうか。かつてのアメリカには広大な土地と資源があり、それを自由に使えていた時は自由な教育で活性化していました。

しかし、時代が進み、グローバル化の中で、安くて良質な輸入品が入ってきたり、優秀な外国人などがアメリカ人の地位を脅かすようになってきて、アジア流の教育方法を導入することになりました。

いわゆる標準テストによって理解度を確認しながら学力を上げていこうと、日本をはじめアジアの教育の良いところを真似しようとしたのですが、自由や個人のやり方を尊重する「絶対核家族」なアメリカで成功するはずがありません。

その後、「標準テストに基づく教育には反対」する教師や教育学者がアメリカで増えていったのも事実です。(日本人からするとテストに反対するなんて信じられないと思いますが、これも価値観の違いです)

教育というのは制度を変えたり方法を導入するだけでうまくいくものではありません。もちろん、お金をかければ一時的には良くなるでしょう。しかし、長い期間で考えるのであれば、文化、価値、社会的なものを考えなければ教育というのは成功しないと思います。

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学歴フィルターから見える、日本の教育と社会の問題点

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この間、公務員や企業リクルートにおける、学歴フィルターに関しての記事や動画を見ました。その一部始終と、それに関連する日本とアメリカのやり方を対比したいと思います。

企業など、履歴書で選別する場合は、やはり、学歴フィルターがかかるとのこと、理由は応募者が多い場合、偏差値の高い大学や、コネクションのある大学の学生を選ぶ傾向があるようです。

一方で、公務員は、独自の試験があって、そこから選ぶので、それほど学歴フィルターがかからないようです。そういう意味で、最近は、企業も独自試験によって選ぶ傾向にある、と説明されていました。

あと、国家公務員の出身校が1つか2つに集中している傾向があるので、学歴をすべて隠して試験や面接を受けるようにしたたらしいですが、それでも、合格する出身校の割合は、ほとんど変わらなかったそうです。

ここまで聞くと、やっぱり有名校出身の人たちは優秀ですごい、となると思います。確かにそういう側面があるのは間違いないのですが、私の感覚からすると、日本の公務員などの組織の考え方がいかに画一的になっているか、を問題視してしまいました。

独自試験に関しては、アメリカの有名企業も実施しているようで、それによって、必ずしも有名大学出身者が選ばれるわけではないようです。つまり、現状に即して柔軟に効果的に選んでいるのです。(もちろん、すべての企業ではないですよ)

日本でも、「個性を生かす」とか「オンリーワンの才能を伸ばす」ような教育などと言ってはいますが、現実は、画一的に「きちんとした、お利口さん」しか選べないような状況なのです。まさに建て前と本音でしょう。

昔、アメリカで、私の学生が、ある有名研究所のインターンを希望するために、推薦書を頼んできました。世界中の応募者、約1万人の中から、彼が選ばれたんです。これは、彼の所属する学部も歓喜していたようです。

その後、彼から直接話を聞いたのですが、研究所側からすると、単なるお利口さんの学生より、何かしらいろいろな経験を乗り越えてきた人を選びたかったそうです。

確かに、彼は、高校を途中でやめ、しばらく親の車整備の仕事を手伝いながら、ある日突然、大学進学を決めた感じの人でした。私の授業でも、結構、苦しんでいたようですが、あきらめず、1年経つ頃には、理解してテストに望めるくらいになりました。

日本ではどうでしょうか。実は、日本でもそういう美談はあると思います。例えば、この間、亡くなった野村克也さんは、このように人を見て、育てられたんでしょう。

「野村再生工場」といわれ、うまくいかず、くすぶっていた選手を見事に再生してきたところからつけられた名称です。おそらく、野村さんは人を表面的にではなく、本質を見ながら、人というのは変わっていくものだとわかっておられたんだと思います。

しかしながら、一般的にはどうでしょうか。テストで点数を取るだけの努力をして、いかに上の人に受けいれてもらえるかしか考えていないように見えます。このように偏差値や大学名を信仰しているのを見ると、部外者から見ると、まさに教育カルトにしか見えません。

単なるテスト主義ではない、教育から見えてくる、組織、社会、そして人間というものを、じっくり考えてみてもいいかもしれないですね。

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2020年の新年を迎えて、ぜひ、今年進めてみたいこと

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2020年、令和2年になりました。あけましておめでとうございます。今回は少々、人間味を出してみましたが、今年は、そういう方向で行こうかなとも思っています。

やはり、年はじめということで、今年、大幅に進展させたい、いくつかのことを宣言しておこうと思います。すべてうまくいかないかもしれませんが、公表することによって、少なくとも開始できる口実になるでしょう。

まず、1番目ですが、何かしらの申請をして、大学レベルの共通単位を与えられる授業を提供できるようにしたいです。

確かに、家庭教師として「学び」のお手伝いも、充実はしているのですが、元々、大学で教鞭をとっていたので、自分が作ったカリキュラムで「学ばせたい」という気持ちが強く出てきました。

実は、宿題の解き方を手伝うだけでは、学んでいく道筋ができにくいんですよね。また、その道のりを作るには、講義の仕方、宿題の出し方、テストの問題の選び方など多岐にわたるのです。

このように、全般にわたって教育に従事でき、さらに、成績と単位を与えられるようになれば、受けた方も自信が持てると思うので、是非、この方向でできるように努力したいと思います。

2番目に、やるべきことは、「分析」にかかわる、講義のさらなる発展です。最近、確率・統計に関する講義の依頼が増えています。もちろん、人工知能も含めて、いわゆる、科学と数学のハイブリッド的な分野が、これからも重要になると思います。したがって、この方向における、あらゆるトピックに関して、授業を一つでも多く作れれば、良いでしょう。

3番目は、米国も巻き込んでいけるようにしていくことです。そもそも、私は、日本の教育状況も知っていますし、米国などの大学でも教えていました。日米、両教育の良いところ、悪いところを把握していますので、世界レベルで活躍できるような人材を輩出できるように、日米でのカリキュラムを確立できるように持っていければと思います。

そういう意味でいえば、韓国、シンガポール、フランス、イスラエルなどの教育システムや、テスト問題の研究に関しても、去年から始めましたが、今年も少しずつながら、進展できれば良いと思っています。

今年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。

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物事の見方や考え方が単純化してしまうのも教育のせいですか?

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昔から、テレビに出演しているアナウンサーやコメンテーターの文言を聞きますが、最近ではネットでも、いろいろな意見を聞けるようになりました。

かなり、幅広い意見が聞けるという意味で、昔より多くの考える材料が増えたということが言えると思います。

一方で、情報の玉石混交と言いますか、そこから、すべてを聞きながら吟味をして、もっともらしい状況にまとめ上げるという、リテラシーも必要になってきます。

特に気になる議論として、昔からあるのですが、「○○すれば解決する」とか「規制すれば○○が減る」のように、物事をあまりにも単純化して、解決策を提案する例です。

比較すると、日本のメディアなどで多い言い方のような気がします。アメリカ人でも、一般人が、そのような意見を言うことは多いのですが、メディアでは、専門家を含めて、もう少し深い議論をしていきます。

というのも、世の中の事例は複雑なものが多く、解決策という答えが簡単に得られるものではありません。議論を深めることによって、問題の状況を知って、解決に向けて決断や修正していくことが重要だからです。

しかし、日本では、多くの人たちが、解決するための「答え」を求めようとしたり、これが「答えだ」と言わんばかりの剣幕で、意見をまくしたてる人が多いような気がします。

この原因は、日本だけでなく、アジア全般に言えることなのですが、いわゆる、「詰め込み教育」と言いますか、問題に対して素早く正確な答えを用意することを教育で訓練されてきたというのがあると考えています。

本来の教育では、問題の見つけ方から始めます。もちろん、それが本当に問題なのかの議論もしなければいけません。その後、その問題を解決する方法を吟味しながら、どれが効果的か、なども考えることになるでしょう。

また、実際に行動して、その結果から、方法などの修正、実行を繰り返しながら、問題解決まで、常に議論を緩めないというのが常識です。

また、議論の仕方も、過去や他の国での事例と比較しながら、どのようになるのか予測しながら行うもので、決して思い付きだけで進めるものではありません。

ここで説明しているやり方自体は何も新しいことではなく、鮮鋭的な組織や企業であれば、常識的に行っています。

いわゆる、日本において、エリートなどテストの世界でうまくやってこられた人に限って、早く正確に行動するために、深い考察や、行動の修正とタイムリーな決断ができていない人が多いように思えます。

しかも、このような形で正解ばかりを追うような行動ばかりすると、かつては正解だったのに、今は間違いであることに気づかず、新しい挑戦に限って、いつも失敗してしまうことも多いように思えます。

これは、長年の教育の結果ですので、うまくいっていた時代もあるのですが、これからは、早く正確に、だけでは人工知能でもできてしまうので、段々、価値が薄れて行っているのは間違いありません。

教育を変えるには、先生を教育しなおすしかないでしょう。もしくは、上のような状況に合った教師にイニシアチブをとらせて、うまくいけば、周りが真似していくように仕向けるかになります。

法律や、やり方を変えればうまくいくと思っている教育改革者は、そろそろ現実を学んだ方が良いのかもしれませんね。

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テスト主義が招く教育の破壊行為、とは。。。

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私の経験から、テストで点数を取ることに重きを置くと、本当の教育を行うことが難しいという話を示してみたいと思います。

まず、最初に断っておきますが、テストを受けさせること自体が悪いということではありません。テストはあくまで手段だと位置づけていれば、それを使って学生の理解を深めることができるのは確かです。

また、長期間にわたって一貫した教育ができれば、テストを利用しないで学力を上げることもできます。いずれにせよ、教育者の力量やクラスマネジメントでどうにでもなる部分でもあります。(将来的にはAIなどでパラメータを視覚化できるとも思いますが)

基本的に言えるのは、理解を中心に置かず、テストの点数だけで評価することを推進すれば、大きな問題を引き起こします。

まず、アメリカのある州の例を見てみましょう。アメリカでは何年か前から政府の方針で、いわゆる学校の共通テストを受けさせ、学力の進歩を見るようになりました。

しかし、残念ながら、アメリカでは、それにともなって教師の訓練を正しく行わなかったため、教師が生徒により多くの点数を取るように勉強を強制し、多くのプレッシャーをかけた、というのが実態でした。

その結果、どうなったでしょうか?生徒らは合法・非合法を含めてカンニングするようになりました。ところで合法カンニングとは何でしょうか?これは、いわゆる「ごまかし解法」で、周りの生徒との情報交換で、「このように書けば、点数をとれる確率が上がる」とか「これを選択すると正解する確率が高い」という指針の下に回答する方法です。

また非合法カンニングの常とう手段は、成績の良い生徒のとなりや後ろに座って、解答を写すやり方です。

私の経験ですが、ある学生が私のところに相談に来て、「全然理解していないのに、前期のクラスでA(優)を取った」と苦しそうな表情で吐露していたのは印象的でした。彼は、理解したかったそうです。

日本でも似たような状況がありますが、最近、受け持った方の例で言うと、確かに、前もって出る問題の復習をすれば、問題は解けます。つまり、理解していなくても公式など覚えていれば、何とか問題は解けるのです。

もちろん、このような勉強法では、こちらが少しでも問題の文言や形式を変えれば、全く解けなくなるのは明白です。

また、一般に日本での傾向で言えるのは、とにかく問題を作る側が難しさだけ(複雑で難解という意味で)を追求してしまうことです。

ある大学の医学部の物理学編入試験を拝見したのですが、いわゆる重箱の隅をつつくような問題ばかりなのです。しかも、多くの問題が医学とは関係があるようには感じられませんでした。これでは、受験者は何のために、また、どのように勉強するのか途方に暮れるに決まっています。

もちろん、編入試験のみならず、日本では、ふるいにかけるための試験であることが多く、それに対してどれだけ多くの点を取るかが教育としての仕事になっているのです。

こういうことを続ければ、多くの人たちは理解のために勉強に集中できないですし、学問の重要さなどに感謝もできません。さらに、試験が終われば、すべて忘れてしまうのです。

「○○教育が良い」という教育に対して単純な政策を主張する社会風潮がありますが、もう少し、つぶさに教育の現場の声に耳を傾け、良く議論してもよろしいのではと思います。

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本当の教育改革とは何か、を考えてみましょうか

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今回は少しアメリカと日本の教育の違いと、将来、教育をどのようにグローバルに変えていくのか、もしくは、変えないで行くのかに関して、中学から初年度の大学教育までの平均的な教育内容を用いて議論してみたいと思います。

まず、アメリカの教育ですが、基本的に、自由奔放主義な教育です。

教える側も、ある程度のカリキュラムは規定されていますが、教科書の選択や教え方は自由です。(初等・中等の公立学校は州によって、最低限教えなければならない枠組みが決められています。ただし、厳密なものではなく、学校や教師側の自由度もある感じです。)

良い教師であれば、学生を見ながら個性を尊重し、納得いくまで要求するでしょう。そういう教師は自身の価値基準に従って最後まで妥協せずに学生の面倒も見ます。

しかし、一方で、アメリカ流の短所といえば、自由な環境だけに、できる子はどんどんできるが、できない子は置いていかれる傾向にあります。また、カリキュラムや教師全体に対する管理がそれほど厳しくないため、学生が伸びるかどうかが、個々の教師の能力によって変わってしまいます。

さらに、教師への評価が必ずしも実力に基づいているわけでもなく、資格試験や研修なども国全体で決めているわけではないので、州によっても差が出ますし、平均給与もそれほど高くないので、良い人材も来にくいというのもあります。

一方、日本やアジアの教育は、科目のパッケージを記憶を中心に早く正確に習得させていきます。とにかく、正確な解答や手続きを重んじ、すべての学生が同じレベルの習熟度を得ることに躍起になる傾向にあります。国レベルで枠組みを決め、受験というハードルを作って、尻を叩くというイメージですね。

教え方としては、きちんとできるまで繰り返し訓練する感じです。良い教師であれば、細かいコツを教えながら、少しずつ学ばせ、学生に合わせて心理的な配慮も行います。基本的に、日本では教師に対する選別や管理は厳しいので、一定の基準以上は教えられる比較的優秀な人が多いのも特徴です。

ただ、日本流の管理が強すぎる傾向では、教師側の教える内容の自由度が極端に減ってしまいます。また、ルールだからということで、全く意味のないことなども続けないといけない無駄に時間をかけてしまいがちです。

また、生徒の方は、発想力、プレゼンテーション能力、想像力、創造力を養いづらく、想定内の対応は確実に、しかも、素早くできる一方で、想定外のことが起これば、パニックになって右往左往してしまうか、ルールにはないと言って何もしないかになってしまいがちです。

こういう教育が作る社会的規範は、既定の評価基準だけで同じように人を判断するため、多くの人材がいわゆる画一的、つまり、仕事をやらせればできるけど、何か主体性がないような人たちばっかりを産んでしまい、ユニークで面白い発想を評価できなく、または、そういうのを許さないグループ意識もできやすくなる傾向にあります。

いわゆる、アメリカの教育方法は、発見法的に学ばせたり、秀才を集めてレベルの高い授業をしたりするのですが、大多数の子供たちは、言葉は悪いですが、「無視」される状態が生まれやすい。一方で、一人の天才・秀才が大きく大胆に社会やトレンドを変えられることを当たり前という風潮を作っています。

日本は、型にはめてきちんとできるように教育の場で訓練し、ルールに従い、他の人と同じように振る舞うことが良いとされて、社会や国がそれに対して褒美を与えるようなシステムなので、安定はしていますが、いわゆる、環境が変わり、ゲームが変わった時に主導権を握ることができないような社会になります。

当たり前ですが、両方のやり方に得手不得手があります。それを理解して上手く俯瞰された教育マネジメントができるかどうかが重要になりますが、そういう人もなかなかいません。もし、そういう人たちにチャンスを与えられれば、将来をかえられるかもしれないですね。

そろそろ、現在の形態を超えられるものを作りたいですね。もちろん、決して現状を否定するものではなくて、いろいろな教育の問題を解決でき、現状を凌駕できたら、良い方向へ自ずと向かうと思うのですが、どうでしょうか?

「知識に熱意を掛け算する。 そして経験をプラスする、 そこに知恵が生まれるのである。」
 松下幸之助

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