学問に敬意を払う瞬間と本当の教育のあるべき姿とは

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この間、ある客様に統計学的な分析手法に関して一連の講義をしました。この方は、数学に関してのバックグラウンドがない、とおっしゃっていましたが、一通りの授業を終えた後に「数学を学んで、他人に対してエラそうにする感情がなくなってきた」とご感想をいただいたときに、いろいろ考えることがあったので、記事を書いてみようと思いました。

「なぜ、エラそうにしなくなったのですか」と聞いたところ、「数学の成り立ちや、分析の時の吟味のし方などを習っていると、どれだけ多くの人たちがその分野に貢献していて、真理の探究に相当な時間をかけ、試行錯誤してきたということを感じたから」だそうです。

これを聞いて、現在の教育の問題点を感じてしまいました。学校ではテストでいかに多くの点数を取るかに焦点が当てられ、学問の歴史やそれらがどのように人類に貢献し、相互作用してきたかなど、ほとんど教えていません。

そのような中で、要領が良い子は、何も考えずに親や教師の言うことを聞いて、テストで良い点を取って、良い学校や会社などの組織に進んでいくのです。

決して、テストが悪いとは言いません。一生懸命勉強することも良いことですが、その奥底に正しい気持ちと言いますか、なにか、学ぶことに関しての感謝みたいな感情を一切排除する教育社会は問題なのではないかと強く感じます。

点数を取るための手段でしかない学問、上のものに受けいられるためだけの勉強、また、そういう伝え方しかできない教育者、というのは質の良い教育と言えるのでしょうか。

逆に、大人になっていろいろな経験を積んだからこそ気づくことができる大事なものもあると思います。

人間として純粋に学ぶことに敬意が払えて、見返りを求めずに学問に感謝できるような環境を作ることが本当の教育なのでは、と気づかされた感じです。

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実は1年や2年の遅れは、努力次第ですぐに巻き返せます!

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2020年になって、3月・4月と感染症流行により全国的に社会的な動きが麻痺してしまい、学校も全体的に閉鎖されました。6月現在、だいぶ動きは取り戻せた感じですが、当初、学校が閉鎖されることによる、学力の低下などが心配されました。

今回は、私の経験から、1年や2年の勉強内容であれば、それほど時間をかけずに挽回できるということをお話ししましょう。

だいぶ前です。高校中退して、何年か親の自動車整備の仕事を手伝っていたのに、急に進学がしたくなって大学に入学した学生の面倒を見たことがあります。

高校中退で、1年以上の学習内容がすっぽり抜けていて、さらにその状態で大学の授業についていかなければいけないので、大変な思いをしていたはずです。

当初は、優秀な友人の近くで勉強がてら、宿題の解答を写すだけのようでした。やはり、こちらから見ても、理解しているようではなく、やることなすことアップアップだったような感じでした。

よく、私のオフィスに、「全然、わからない!」と言いながら質問に来ていましたが、彼の良かったところは、あきらめずに頑張ったところかもしれません。

こちらも、もちろん、容赦せず、やらせないといけないことはすべてやらせましたし、彼の質問にもすべて答えました。お互い、わかるまでとことんやったと思います。

1学期目の終わりくらいに、彼の表情がかわり、自分自身でテストの解答をかけるようになっていました。

2学期目も私の授業を取った彼が、しばらくして言ったことは、「問題を解く際に何をやっているかわかるようになっている」とニコニコしながらまわりの学生にしゃべっていたのです。

その後、彼は、競争率の高い研究所のインターンシップに応募して選ばれ、人生の方向がっ全く変わっていったようです。

1年以上のハンディを背負っていたものの、苦しいのを我慢して、あきらめずに続ければ、人生、大逆転できた、という例です。

一方で、一人ですべてを克服するのは大変でしょう。というのも、私が観察するには、教育環境に合わなくて、やめたり、落ちこぼれたりする学生も少なからずいるのです。

これは、小学生や中学生だけでなく、大学生など大人の人たちにも言えることで、もっと、自由に、しかも、かゆいところに手の届くような教育が提供できるようになるように、ある程度、教育の自由化や補助などがあってもよいかもしれませんね。

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人工知能(AI)は、神か悪魔か?仕事が奪われるのではとおびえる方へ

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数年前に深層学習が確立してから、AIが実用的にブームになっています。何かあれば、AI頼みとなっていますが、「政治家を全部AIにしろ!」だとか「AIが暴走して人類を支配する!」など、期待や不安が多い状況です。

実は、あまり人工知能のことを知らない人たちが、このようにAIを神格化したり、悪魔の申し子のように扱っているのではないでしょうか?

AIだけでなく、歴史的に人類の仕事を脅かしてきた技術革新は結構ありました。ここでは、2つほどの例を用いて、AIとの付き合い方を議論してみたいと思います。

まずは、電卓です。現在では、携帯の電卓で一番簡単なものだと、100円くらいでも手に入ります。コンピュータにもスマートフォンにも、ありとあらゆるところに組み込まれていますよね。

しかし、当時は、「電卓によって人間の仕事が奪われる」だとか「電卓に頼ると子供の勉強にならない」などいろいろな不安や批判があったようです。

でも実際はどうでしょうか。大学生は関数電卓を使うのですが、結構な数の学生が、うまく使えていないのです。数字を入力しても正しい答えが得られないなど、全く、どう動くか把握していないのです。

他にもマセマティカやメープルといった数学ソフトも出てきたとき、「宿題の問題を解いてくれる!」と勘違いした学生も多かったようです。実際は、数式の意味や扱い方の根本がわかっていなければ、使いきれませんでした。

ここまで来ると、わかると思いますが、人工知能(AI)も、その原理や使い方などわかっていない人は、有効利用できないんですよね。

さらに加えて言えば、AIだろうがマセマティカだろうが、出てきた物を判断・評価するのは人間なんです。

確かに、AIを悪用する人はいるでしょう。また、想定外の事故もあるでしょう、しかし、人間がAIに支配されるというのは、妄想に過ぎないのです。

もちろん、ボーっとしてる人は、AIだけでなく、いろんなものに支配されますが。。。とにかく、何が起こっているのか、何が原理原則なのか俯瞰するというのが大事で、そういうことを指摘する教育というのも、今後、評価していかないといけないと思います。

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日本人の伝統や心を大事にしたいのであれば、少し教育の見方を変えた方が良いのでは?

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どこの国にも文化があり、素晴らしい考えをもって、国や世界に貢献している人たちがいます。もちろん、日本国、日本人も、そのような大事なものを引き継いできたと思います。

最近では、日本文化を日本人が見直すという機会も多くなってきていると思います。昔からの伝統があったからこそ、今の日本人があるのです。

しかしながら、現在、教育に関して言えば、日本の伝統を無視しているのではないでしょうか?

そもそも、日本の教育における伝統とは何でしょうか。いわゆる徒弟制度のようなもので、師匠についていく弟子が、議論したり、師匠の背中をみて、言葉にはできない教えから多くのことを学ぶというものです。

また、寺子屋教育のように、少人数の生徒を、手取り足取り、基礎を教え込むというのも、その派生でしょう。

現在、その伝統が残っているのが、茶道や華道、その他の伝統芸能やものづくりの世界です。彼らは、すばらしい物を受け継いで表現し、多くの人を感動させています。

一方で現代教育では、そのような伝統は影をひそめるようになりました。もちろん、ある程度の効率化やコストカットなどの理由はありますが、試験を中心とした、大量生産型の教育に成り下がってしまいました。

私の観察では、このような教育の下で作られる人材というものが「薄い」感じになってしまっているのです。本質よりも名目だけを求めるような、薄っぺらい、という意味です。

伝統的な制度において、本来、テストだけで、免許皆伝はあり得ません。師匠からは、技術だけでなく、生き方や、考え方、さらに、わからないものに対しての向き合い方などを、時間をかけて経験から学んでいくのです。

また、たとえ試験があったとしても、試験の終わりが始まりである、という覚悟を決めるのが、伝統的な教育に内在している原理なのです。

しかし、現行の教育では、統一テストを受けさせ、機械が採点した結果で一喜一憂し、合格すれば、天下取ったような振る舞いしかしないような人しか育てていないのではないでしょうか?

よく「箔がつく」と言いますが、すぐにはがれるような箔をつけるような教育機関は、日本の伝統からもっと学ぶべきでしょう。

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これから先、日本の大学教育のあり方について考えてみました

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元々、日本の教育というのは、欧米とは違った形で発展してきましたが、大きく時代が変わったり、戦前・戦後での価値観が変わるなど、教育の形式がいろいろと変遷してきたのも事実です。

また、どちらかというと初等、中等教育に力を入れて来ているのも特徴ですが、時代に進むにつれ、日本人の大学進学率も高くなっています。

しかしながら、欧米と比べて、大学教育そのものが重要視されていないのも特徴的で、大学入学までですべてが決まる、受験中心主義もなかなか抜けきらないところもあります。

さらに、文系と理系に分けて教育するというのも特徴的で、その間には大きな壁というか、全く違った「生き物」のように扱っているように見えます。

数十年前までは、若年層の人口も多く、日本も発展段階であったため、試験で選抜するのが一番簡単で、あとは、その試験を乗り越えるだけの根性をもとに、会社に入って奉仕し、それが日本全体を豊かにしてきた経緯もあります。

その後、だんだんと出生率が減っていきました。さらに経済においてバブル崩壊も含めて、基本、若年層の人口は減って、少子化時代と言われています。

その途中で、試験の偏差値だけでなく、いろいろな評価が必要とのことで、ゆとり教育や、受験体制の変化も含めて、特殊な能力や推薦などで入学する人も増えてきました。2020年現在で、約45%の学生が、元来の試験以外で入学しているようです。

現在、大学側からすると、若い人たちは、少ないために貴重な「お客様」となってしまったようです。しかし、ここで、大学側が教育というのを、単なるビジネスというか、お金儲けとしか考えなくなっていくことには、警鐘を鳴らしたいのです。

被教育側は、単位や学位を単に購入しているのではなく、学んだことが能力や実力となって、多種多様な貢献ができるのを見越して投資しているのです。

そうであるはずなのにもかかわらず、被教育者は、簡単に単位が取れる大学やブランド価値がある方を選ぼうとしています。一方で、大学側も、それに迎合するような形で運営し、結局、有名無実なことに一生懸命になっているのです。

大学で学ぶ内容というのは、まさに、世界や歴史の垣根を超えた学問を自由に、生で学べる場所です。ですから、きちんと学ばせて社会や世界に貢献できる人材を作ることに大学側は使命感を持つべきでしょう。

たまに聞くのですが、「単位を落としたり、落第させると、大学側の問題になる」とある教授が言っていました。

私の経験で恐縮ですが、学生時代、大学で、ある科目を取った時、結構簡単にしかも良い成績を取ったんです。「こんなものかな」と思いつつ、別の大学の大学院で分かったのが、全くと言っていいほど、その講義では、何も学んでいなかったのです。

結局、苦労して自分で学びなおさなければいけなかったのです。ある意味、仕方ないことでもあるのですが、その講義が簡単すぎたことを、あれほど恨んだことはなかったでしょう。

これからは、日本でも比較的簡単に入学できるようになってきているので、ただ単に、難しくするとか、学生の顔色を見て簡単に終わらせるとかではなく、きちんと学んでいるかどうかを確認しながら行っていくという、社会的な責任を感じて教育をしてほしい、もしくは、そうすべきだと思っています。

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高校で習う数学や物理が、大学で勉強するための基礎だと思っている方、ダマされていますよ!

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現在、世界中で、名前や年数は違えど、小学校、中学校、高校、大学という感じでいくつかの段階を経て学んでいくのは、ほぼ一緒だと思います。

ただ、カリキュラムと言いましょうか、内容や表現は、国や地域によって変わってきます。

そこで、今日は、この教育システム、特に日本のカリキュラムに関して、高校で習う数学や物理の内容が、大学で勉強するための準備になっているのかどうか、議論してみたいと思います。

確かに、小学校と中学校で習うことは、初等的な内容で、生活や仕事をしたり、さらに学ぶために必要最低限であることは確かです。

しかしながら、高校で習う内容、特に数学と物理に関して言えば、大学でさらに勉強するための基礎を教えている内容ではないのです。基礎ではなく、切り取った内容でしかありません。

実際、数学に関しては、受験問題に沿った公式を覚えて、類題が解けるようになるための勉強です。物理学は、数学に似ているから、数学っぽく教えておけば、2度手間にならないから楽だろう、って感じでカリキュラムを組んでいます。

これは、当然、文科省などから「ここまで教えてもいいけど、これ以上は教えてはいけません」と通達があるのが一つの原因ですが、大学受験があるから学校側も受け入れざるを得ないやり方だと思います。

「なぜ、大学受験なの?」に関してですが、それは、一斉に行う大学受験で粗相があったら、みんなに大バッシングを受けるからでしょう。「こんなの習っていない!不公平だ!」などいろいろ文句が出ます。

それに加えて、あまり簡単なことしか教えないようであれば、受験問題を作る側もバリエーションが減ってしまうので、それなりの量も教えてもらわないと困ります。

あと、物理や数学は、暗記するような学問ではなくて、基礎原理から膨大な概念を網羅し展開していくものなので、うまい具合に高校生のカリキュラムを作るのに苦労した、という理由もあるのでしょう。

ですから、日本の高校の数学と物理は、ひじょうに中途半端な構成になっています。もし、学問としての理論に踏み込めば、際限がない世界ですからね。カリキュラム作りに関しては、ある意味、同情しますが。。。

はっきり言いましょう。高校数学と物理は、大学で勉強するための基礎ではありません。高校で物理を取っていなくても、大学初年度レベルの物理を勉強することは可能です。

もちろん、簡単ではありませんが、やる気さえあれば、中学レベルの数学や科学の知識をもって、約1年で十分全体像がつかめるくらいになります。むしろ、余計な先入観がないために、すんなり学ぶことができるでしょう。

学校の世界にも大人の事情や闇があります。もちろん、知らなければ、騙されるのは仕方がないでしょう。でも、強く思い込んでしまうのは、新しいことや真実を学ぶことへの弊害になるということも、頭の片隅に置いておくことが大切かもしれませんね。

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学歴フィルターから見える、日本の教育と社会の問題点

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この間、公務員や企業リクルートにおける、学歴フィルターに関しての記事や動画を見ました。その一部始終と、それに関連する日本とアメリカのやり方を対比したいと思います。

企業など、履歴書で選別する場合は、やはり、学歴フィルターがかかるとのこと、理由は応募者が多い場合、偏差値の高い大学や、コネクションのある大学の学生を選ぶ傾向があるようです。

一方で、公務員は、独自の試験があって、そこから選ぶので、それほど学歴フィルターがかからないようです。そういう意味で、最近は、企業も独自試験によって選ぶ傾向にある、と説明されていました。

あと、国家公務員の出身校が1つか2つに集中している傾向があるので、学歴をすべて隠して試験や面接を受けるようにしたたらしいですが、それでも、合格する出身校の割合は、ほとんど変わらなかったそうです。

ここまで聞くと、やっぱり有名校出身の人たちは優秀ですごい、となると思います。確かにそういう側面があるのは間違いないのですが、私の感覚からすると、日本の公務員などの組織の考え方がいかに画一的になっているか、を問題視してしまいました。

独自試験に関しては、アメリカの有名企業も実施しているようで、それによって、必ずしも有名大学出身者が選ばれるわけではないようです。つまり、現状に即して柔軟に効果的に選んでいるのです。(もちろん、すべての企業ではないですよ)

日本でも、「個性を生かす」とか「オンリーワンの才能を伸ばす」ような教育などと言ってはいますが、現実は、画一的に「きちんとした、お利口さん」しか選べないような状況なのです。まさに建て前と本音でしょう。

昔、アメリカで、私の学生が、ある有名研究所のインターンを希望するために、推薦書を頼んできました。世界中の応募者、約1万人の中から、彼が選ばれたんです。これは、彼の所属する学部も歓喜していたようです。

その後、彼から直接話を聞いたのですが、研究所側からすると、単なるお利口さんの学生より、何かしらいろいろな経験を乗り越えてきた人を選びたかったそうです。

確かに、彼は、高校を途中でやめ、しばらく親の車整備の仕事を手伝いながら、ある日突然、大学進学を決めた感じの人でした。私の授業でも、結構、苦しんでいたようですが、あきらめず、1年経つ頃には、理解してテストに望めるくらいになりました。

日本ではどうでしょうか。実は、日本でもそういう美談はあると思います。例えば、この間、亡くなった野村克也さんは、このように人を見て、育てられたんでしょう。

「野村再生工場」といわれ、うまくいかず、くすぶっていた選手を見事に再生してきたところからつけられた名称です。おそらく、野村さんは人を表面的にではなく、本質を見ながら、人というのは変わっていくものだとわかっておられたんだと思います。

しかしながら、一般的にはどうでしょうか。テストで点数を取るだけの努力をして、いかに上の人に受けいれてもらえるかしか考えていないように見えます。このように偏差値や大学名を信仰しているのを見ると、部外者から見ると、まさに教育カルトにしか見えません。

単なるテスト主義ではない、教育から見えてくる、組織、社会、そして人間というものを、じっくり考えてみてもいいかもしれないですね。

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日本の子供の読解力が落ちた本当の原因とは(2018年のPISAより)

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この前、2018年のPISAの結果から、日本人の子供の読解力が落ちた、という結果が出たことに関して少々論じてみました。いろいろな原因があったでしょうが、私の感覚から、その時は、教師の能力に疑問を呈していたと思います。

しかしながら、2020年1月27日の日本経済新聞に、耳塚寛明氏が面白い考察をしていたので、それをもとにさらに深い議論をしてみます。

この読解力の点数は、急に下がったものなので、日本国内の教育政策や、環境の変化で説明するのは無理があるのでは、とのこと。一方で、PISAのテストが2015年からコンピュータ上で受ける形に移行したようなのです。

加えて、問題の内容も、ネットなどのデジタル文書を通しての判断力や解釈なども増えたようです。

そこで、耳塚氏は、それらがすべての原因とは言わないまでも、コンピュータを使い慣れていない、もしくは、ネットなどを使いこなせていない、日本の子供の現状が問題なのではと、指摘していました。

確かに、興味深い考察で、実は、他のデータでも、世界各国の15歳がコンピュータを使っているかどうかで、唯一、日本だけがここ10年でコンピュータの使用率が10%以上減っているようなのです。(他の国はほぼ全部上がっています)

しかも、スマートフォンやタブレットの使用率が他の国より多いかといえば、そうでもなく、全体的に日本人の子供のデジタルリテラシーが落ちている結果が出ているようなのです。

また、事実、教育の現場でも、ネットやコンピュータを使って学習したり、リサーチなどをしたりするのも少ないらしく、世界標準に追い付いていないというか、いつの間にか後れを取っているという状況なのだそうです。

よく世間では「コンピュータの次は、タブレットやスマートフォンが出てきて、世の中どんどん難しい機械が増えていく!」という人がいますが、本当は逆で、タブレットやスマホは、コンピュータよりも直感的に楽に使えるようにエンジニアたちが努力して作ったものです。

一方で、コンピュータは、難しいというより、いろいろなことができる機械なので、わかっている人にとっては、開発もできるし、いろんなソフトをインストールして使ったり、外部の機器を接続したりできるものです。すごく単純に言えば、スマホは受動型、コンピュータは能動型の機器なのです。

そのような状況で、コンピュータを使わない人たちが増えるというのは、どのようなことなのでしょうか?

学校に予算がなくて、そのようなものを導入できないのでしょうか。それとも、親にしても、教育委員会、下手をすれば文部科学省なども、積極的に、世界の動向を取り入れることに抵抗があるのでしょうか。

いずれにせよ、生徒たちは、完全に上から言われたことを素直に受動するだけになってしまったのでしょうか。

これから、小学校でプログラミングの授業が始まるわけですが、デジタルリテラシー全体が落ち込んでいいる中、プログラミングという授業だけが一人歩きしないか心配です。

かつての英語の授業のように、試験のため、受験のためだけのもので、実際の生活や将来の仕事などで使えるようにはならないものにならないでしょうか。

これからも、注視していきたいと思います。

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教えるにあたっての声と発するタイミング、また、知識量の重要性

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この間、教えている学生さんから聞いたのですが、「教科書読んでもわからなかったのに、先生に教えてもらうと理解できた」と言われました。

このようなコメントは、以前から聞いていましたし、自身も感じることがあるので、少々、考察してみました。

確かに、教科書を読んで理解しようとするには、結構なエネルギーが必要です。自主的に読み取ろうとして、さらに理解するには、考えたり、他の参考書なども援用しないといけません。

これは、ビデオ動画でも同じかもしれません。確かに、読むよりは楽ですが、必ずしも自分が欲している知識でない場合もありますし、質問ができなければ、そこに知識習得の限界があります。

ここから先の考察は、自分自身の経験なので、偏見があるかもしれません。教える時に重要なのは、学生の顔を見てタイミングよく話すことになります。これは、理解を促すのに効果的だと思われます。

ただ単に話すのではなく、間を開けたり、文字や絵を描いてみたり、話す速度に緩急をつけたりも効果的です。

実は、昔、しゃべることを全部、黒板に書いて、それを説明するように話したとき、学生が、あまり覚えていなかったり、理解できていなかったりしていました。

体系的に実験などはしなかったのですが、あまりに効果が違っていたので、それ以来、書いてから説明するのは止めて、書きながら、間を置きながら、説明することにしています。

さらに、教える人は、それなりの知識や経験がなければいけませんが、教えるというコミュニケーションは、単に文に書き出したり、それを読むことではないということでしょう。

もちろん、良い教え方、良い教師の基準などは、多岐にわたりますが、これから先は、単純作業的な教え方をしている教師は、人工知能などに置き換えられるでと思います。

さらに付け加えると、教えるだけを目的とした機関は、これから淘汰されていくかもしれませんね。

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日本の教育の難点、ここまで堕ちた理由

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日本の教育に関して、皆さん、いろいろと努力されてきています。もちろん、尊重したいのですが、現在の日本人全体からにじみ出る、もののミカタといいますか、結論の方向、行動のパターンからすると、現在の教育における難点が見えてきました。

基本的に、現在の教育現場では、人類が学問に、また、学問が人類に貢献してきたことに対して関心がない、という基盤で教育が行われているということでしょう。

何のために、国語、数学、科学、社会学、外国語などを学ばないといけないのか、教える側も、教わる側も、わかっていないのです。

まず、最初の難点が、受験に必要かどうか、必要でなければ、受ける必要がない、など、内容よりも、手段としてどれだけ有用か、として教科が扱われている点です。

言い換えると、人類にとって、また、人類の歴史ににおいて、生み出されてきた知識や経験を教えよう、または、学ぼうとする、謙虚な姿勢がそもそもないのです。

ただ、受験に合格するための手段としてしか見ておらず、下手をすると、受験が終わればすべて忘れてしまうようなことしかしていないのです。

次のポイントは、教科間の分断、知識の切り取り、学問に対する浅薄なレッテルはり、によって、単なる暗記か、対症療法的な形でしか勉強していない、または、させていない、という点です。

国語の正しい習得は、科学における問題の理解や、効果的な発表に役立ちますし、数学の理解は、自然科学のみならず、昨今の経済学、社会学を理解するのにも重要です。

また、自然科学である生物学、化学、地学などの基礎にあるのが、物理学であって、医学、薬学など医療に関する分野の理解にも役に立ちます。

しかしながら、学校では、文系・理系などと区別し、それぞれの教科を分断して、テストでより多くの点数をとるためだけの、その場しのぎの方法しか教えないのです。

明らかに、学問に対しての冒涜であり、時間の無駄でしかないようなことを堂々とやっているのには閉口せざるを得ません。

もちろん、「そうするしか仕方がないんだ」という人も多いでしょう。しかし、多くの人は、大人になって、社会人になって、本当に学んでみたいという人たちも少なからずいるのも確かなんですよね。

いずれ、具体的な方法や私が経験したことをお話しできると思いますが、とりあえずは、現在の教育に、このような問題点があるということを把握することも大事ではないでしょうか。

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