なかなか理解されない教育の本質、本当の教育のミカタとは

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最近の教育に関して、テレビや新聞で報道されていた内容を精査してみようと思います。日本では、いまだに過去の栄光とやり方に固執している状態で改革しようとしています。そのため、結局は元の木阿弥になるのです。

以前にも申しましたが、テストだけで人を変えることはできません。つまり、「テストの問題を、考えさせるような内容にすることによって、考える力を養えるような学生が生まれる」というのは、ウソ、ということです。

テストはあくまで、手段であって、目的にはなりえないということを説明します。

確かに、テストの結果、つまり、点数だけ上げるのであれば、テストの傾向を調べて、その対策を打てば、手っ取り早いでしょう。しかしながら、そのような勉強で、テストの内容をきちんと理解した上で答えられるかどうか、となれば、それには疑問符が付きます。

よく考えれば、当たり前のことです。技術に関しては、先生の教え方が良かったり、教科書がわかりやすければ、習得にかかる時間は短いでしょう。しかし、十分習熟して、どのような状況でもうまく対応できるようになるには、それなりの経験や、いくつもの問題を試行錯誤しながら解決することによって、身につくものです。

つまり、事実の説明と扱い方、確認のテスト、さらなるチャレンジ、新たなる問題意識などを連続的に、はぐくんでいくことが、真の教育です。

たとえ、テストを作る側に崇高な目的があったとしても、初学者が自身でそれを察知して勉強し、それに見合ったように答えるというのは、通常ではありえません。逆に言えば、それができれば、学校も教育もいらないでしょう。

ですから、現在の日本のような、受験ですべて解決とするような教育には、いろいろな問題がはらんでいるのです。

この前、テレビで、ネットで調べて答えるような受験問題を出している学校を取材していました。いわゆる、答えを求めるというよりは、答えに至る過程を評価するテストです。

例えば、「アンパンマンのぬいぐるみを持っている家庭は何世帯あるでしょう」という問題に対して、子供の数の割合、その他の要素から数値を予測するもので、いわゆるフェルミ推定のようなものです。

これも、趣旨は素晴らしいのですが、やがて、そのテストを対策する塾ができて、いかに良い点数を取れるかを教えるようになるだけです。もちろん、役に立たないとは言いませんが、その後、その学校で、それに関連した訓練を継続するのであればともかく、そうでなければ、受験のためだけのスキルになるでしょう。(ここで言及しているのは、特定の学校のことではなく、一般論です)

以前もお話ししましたが、ある親御さんが、「テスト問題の類題を作って、それを、ひたすら練習させてください」と言ってきました。大学の授業で、このような単純な勉強をしていると、少しでも設定や条件が変われば、点数はゼロになります。いわゆる無駄な勉強です。

練習するのは良いのですが、理解せずに、ただ、やみくもに問題を解くのは、意味がない以上に、学問の理解や応用にいろいろな弊害が出てしまいます。弊害というのは、心理的なもので、意味もなく繰り返せば、何とかなるという感覚が刷り込まれるということです。

実際、こういう考えが、偏差値教育とゆとり教育で失敗を導き、働き方にも無駄が多く、なぜ、現状がダメなのかも分析できない人を量産しているんです。

せっかくの新しい時代、もっと視点を変えて、広範な教育の理論や技術をふまえて、これからの本当に意味のある教育を語っていきましょう!

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2020年の新年を迎えて、ぜひ、今年進めてみたいこと

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2020年、令和2年になりました。あけましておめでとうございます。今回は少々、人間味を出してみましたが、今年は、そういう方向で行こうかなとも思っています。

やはり、年はじめということで、今年、大幅に進展させたい、いくつかのことを宣言しておこうと思います。すべてうまくいかないかもしれませんが、公表することによって、少なくとも開始できる口実になるでしょう。

まず、1番目ですが、何かしらの申請をして、大学レベルの共通単位を与えられる授業を提供できるようにしたいです。

確かに、家庭教師として「学び」のお手伝いも、充実はしているのですが、元々、大学で教鞭をとっていたので、自分が作ったカリキュラムで「学ばせたい」という気持ちが強く出てきました。

実は、宿題の解き方を手伝うだけでは、学んでいく道筋ができにくいんですよね。また、その道のりを作るには、講義の仕方、宿題の出し方、テストの問題の選び方など多岐にわたるのです。

このように、全般にわたって教育に従事でき、さらに、成績と単位を与えられるようになれば、受けた方も自信が持てると思うので、是非、この方向でできるように努力したいと思います。

2番目に、やるべきことは、「分析」にかかわる、講義のさらなる発展です。最近、確率・統計に関する講義の依頼が増えています。もちろん、人工知能も含めて、いわゆる、科学と数学のハイブリッド的な分野が、これからも重要になると思います。したがって、この方向における、あらゆるトピックに関して、授業を一つでも多く作れれば、良いでしょう。

3番目は、米国も巻き込んでいけるようにしていくことです。そもそも、私は、日本の教育状況も知っていますし、米国などの大学でも教えていました。日米、両教育の良いところ、悪いところを把握していますので、世界レベルで活躍できるような人材を輩出できるように、日米でのカリキュラムを確立できるように持っていければと思います。

そういう意味でいえば、韓国、シンガポール、フランス、イスラエルなどの教育システムや、テスト問題の研究に関しても、去年から始めましたが、今年も少しずつながら、進展できれば良いと思っています。

今年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。

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日本は、本当に「ゆとり教育」を克服したのか?

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ここ最近の情報から、2019年現在の日本の教育を議論してみたいと思います。

2018年のPISAの結果から、日本人生徒の読解力リテラシーが前例にないようような落ち込みようでした。

一般的な評論では、「ここ最近のSNSなどの短い会話のコミュニケーションの繰り返しによって、読解力が落ちたのでは」と言っていますが、実際はどうなのでしょうか?

昔から、「最近の若者は本を読まない」、「新聞も読まなくなった」、「テレビゲームのやりすぎ」などなど、同じような批判がありました。もちろん、年長者から見れば、若者は「常に」期待通りに行動しないでしょう。

しかしながら、それが、時代時代の国語や数学の平均点を左右するのでしょうか?

いつの時代も若者は刺激を求めていますし、遊び心に満ちていて、勉強が好きな子、まじめな子、遊びや趣味に夢中な子、などの割合はそれほど変わらないのではないでしょうか。

当然、子供は経験もないですし、ほうっておけば、さぼりがちになります。独学では学ぶ速さも遅くなってしまうので、ある程度学習効率を上げるため、また、習得内容の平均量を上げるために教育というものが存在します。

ここで、最初の議論に戻ってみましょう。本当にSNSやスマホが今の若者の読解力を下げたのでしょうか?もちろん、原因は複合的なので、一概には言えませんが、どんなに私生活が怠惰なものであっても、学校でしっかり学習して、身に着けるようにしていれば、能力は平均的に上がっていくでしょう。

となれば、環境の変化だけでなく、教育の質が下がったと考えることもできるのではないでしょうか?

これは、一人一人の教師を責めるのではなく、教育環境が整備されていないとか、法律やルールが古すぎるなど、システムにも問題があるかもしれません。少なくとも、点数が下がった理由が生活環境の変化や生徒の態度だけに言及されれば、改善方法に提言ができません。

ほかにも、この考察を、うらづけるようなことが、テレビで流れていました。高校生がスマホのアプリなどで、助け合いながら、また、知識を持ち合いながら、テスト勉強する、というのを流していました。

その1シーンで、ある生徒が「2次方程式の判別式がゼロになると、なぜ、重解になるの」と聞いた後、友人が「それは、そうなっているからだよ」と言っていいたのです。

ほかにも例がありますが、概して言えるのが、「公式を覚えて、問題が解ければ、それでいいんだよ」という教育方針が丸見えなのです。

結局、このようなことを繰り返し、一生懸命、数をこなすことが、脱ゆとり教育だとしたら、教育の質は上がらないのではないでしょうか。

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2018年のPISA(学習到達度調査)の結果を受けて解説します

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国際的な学力調査で有名なPISAというテストがあります。国や地域ごとに算出されるものですが、その結果を追って、各国が、どのようなことをコメントしているのか、また、どのように解釈すべきかを議論していきたいと思います。

PISAの試験は、15歳児の読解力、数学、科学と、それぞれのリテラシー、つまり、解釈する能力を測定するものです。基本的に経済協力機構(OECD)の国で実施されていますが、それ以外の都市(上海など)でも行われています。

テストに携わっているのは、オーストラリア教育研究所を中心に、日本の組織などもかかわっています。

そのため、教育ニュースにおいては、イギリス、オーストラリア、日本では、テストの結果を見て、「どの国が躍進しているか、なぜ、我が国は、なかなか点数が上がらないか」などの議論が活発でした。

一方で、アメリカは、PISAに関しては、参考にしますが、点数だけで学力を判断することに懐疑的な態度は、一貫しています。

それでは、私がどう見るかですが、今までのデータや、自身の教育経験から、多少、独断的にはなりますが、解説していきたいと思います。

PISAの点数が高いというのは、その国や地域における、教育インフラが整っていて、生徒、教師、親、社会なども含めて、教育政策に、ほぼ一致した意見が共有できている、ということだと思います。

実際、アジアの国々のように、幼少期から、学習やテストの訓練が一般的であったり、人口が少なく、教師の質もある一定程度、長期にわたって保たれているところが上位に行きやすいと、見ることもできます。

実際、そのような環境の下では、生徒、個々人の家庭収入の格差は、学力の格差に反映していないという結果が出ているようでした。

そういう面から言えば、日本のように、1億人規模の人口を抱えたうえで、これだけ上位に位置することができるのは、欧米から見ると、めずらしいとのことですが、一方で、アジア的な教育環境から言えば、まぁ、当然なのかもしれません。

一方で、アメリカのように、自由な教育を主張する国からすると、テストの点数だけで判断するのは、文化的に合わないようですが、最近では、アジア流に見習って教育改革も行われていますし、PISAの点数も少しずつではありますが上がっているようです。

しかしながら、一方で、面白い論文があったので紹介します。タイトルは、Side Effects of Large-Scale Assessments in Educationで、カンザス大学とアラバマ大学の共同研究です。

題名の通り、PISAも含めて、いわゆる大規模な標準テストで良い点数を取るような教育には、副作用がある、と主張しています。

統計的にわかったのが、テストの点数上昇と裏腹に、生徒の実生活における充実さが低く出る傾向にあったようです。ある意味、肌感覚で理解できます。テストで成功するには、しつけや訓練が必要です。いわゆる、スパルタ的な教育ですが、自分の好きなことやリラックスする生活を犠牲にしなければいけません。

確かに、基礎学力がある方が、人生において成功しやすいですし、社会全体にとっても利益になるのですが、アメリカ流の、自由や創造性、人生や人に対する寛容性から来る、社会全体のダイナミズムは、単にテストの点数を稼ぐお利巧な生徒だけでは、実現が難しいかもしれません。

また、一つや二つの方法ですべてがうまくいくこともないですし、成功の裏には、失敗や、あらゆる問題も山積みになっているのは、世の常です。このような中で、生きる術を習得するような教育が理想なのかもしれません。

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「大学受験改革」はうまくいかない、そもそも試験で全て決めるのが問題!

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教育改革や受験改革などよく聞きますが、結局、問題を作るだけで、それほど変わっていないと感じるのは、私だけでしょうか。

物事の仕組みを変えても、中身が変わらない、というのはよくあることです。今回は、アメリカのシステムから、日本の教育や受験の中身を議論してみます。

私の持論でいえば、日本の場合は、社会全体が大学受験に力を入れすぎています。大学に入ることにだけに集中している感じです。

昔から「これじゃいかんだろ」という声は、財界から、また教育界からもちょくちょくありました。「より考えられるような」とか「より、論理的能力を」など、現行の記憶主義的なカリキュラムでは、産業が立ち行かないということで、教育改革を求めていました。

しかしながら、「ゆとり教育」の失敗から、元のさやに戻ったり。最近では、英語教育を早めたり、プログラミング教育を義務化したりなど、いろいろ変化はさせています。

もちろん、これらに対する批判もありますが、今回は、もっと奥深い部分といいますか、根本がわからなければ、良い方向に変わらないのと、さらに余計な仕事が多くなるということを指摘します。

そもそも、テストの結果だけで、理解しているかどうかの判断は、まちまちです。もちろん、一つの基準にはなりますが、日本のように、1次試験で選抜し、とにかく難しいだけの2次試験で合格者を絞る、という形だけで、学生を選ぶのはレベル・質とともに高い大学教育へ、導きづらくなります。

一方で、アメリカでは、いくつもの側面から、「この学生が、うちの大学で良く学んでくれるかどうか」という形で合否を決めます。

そのため、基本学力を、テスト業者が提供している試験結果から、勤勉さを高校などの成績表から、人間的信頼や態度を推薦書から、また、社会や公共に関する関心度を、ボランティアやインターンシップなどで評価します。

ここで勘違いしてほしくないのが、上の基準で全てが決まるわけではありません。これは、あくまで合否です。実際は、大学に入ってきちんと勉強し、さらにそれなりの成績を取らなければ、退学させられるのです。

そもそも、教育は、連続的に経験し、教えられて、また、周りに教えたり、自己実現したりして、自分の中で育てていくものです。それを、1回の試験だけで全てを決めようとするところに間違いがあるのです。

ですから、大学受験の問題を変えただけで、すべてうまくいくという安易な考えでは、教育の質を上げることはできないと認識することが重要になります。

変えることは悪くはありませんが、変化を成功に変えていくには、連続的な試行錯誤と不断の努力にあります。また、1つや2つの仕組みを変えるだけでなく、時間的に続いていくことを想像しながら設計しないといけません。

また、社会全体にある程度、選択の自由など、個人にあった教育方法を選べることの許容も大事になると思います。(もちろん、何事も行き過ぎや放置するのは、さらなる問題を生みます)

もちろん、アメリカの教育システムのすべてがうまくいってはいませんが、日本のような学生のことを考えていない自己満足的な政策の設定や、それに伴う強制は、残念ながら、何もよい方向に変えることはできないと思います。

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良いテスト、悪いテスト、普通のテスト

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人々は、どこか、「テストで高得点を取れば、優秀である」と思っていますが、それは、テストの質、つまり、問題の内容や構成にかかっています。

現在まで、いろいろなテスト問題を解いたり、教えたり、また、作ったりしてきているので、今日は、少しテストの内容を吟味してみます。

まず、良いテストですが、受験者の答え方など、多くのデータで研究、修正してきているテストがそれにあたります。アメリカの民間ではありますが、有名なテストは質が高いです。例えば、TOEFLやGRE、SAT、MCATなど、結構ありますが、きちんと理解していないと、点数が上がりません。

理解していないで答えると、間違った選択肢を選ぶようにしてありますし、点数の換算は、偏差値制なので、他の受験者に比べて根本的に実力を上げないと、点数に反映しません。何度も受けていれば、パターンがわかって少しずつ点数が上がるようにはできていないのです。

また、彼らはテスト製作のプロなので、受験生のこたえるパターンが変わると、テストの出し方などもそれに対抗して変えていきます。これは、学校側として本当に理解している学生を受け入れたいので、テスト業者は、そのプレッシャーの下で作っています。いずれにせよ、テスト内容は、常に改善されています。

次に、悪いテストの基準です。まだ日の浅い資格試験や、テストづくりのプロでない教授などが作った大学の2次試験や編入試験などに多いのですが、学生がどれだけ理解しているかを測る指標ではなくて、点数をどれだけとることができるかに照準を合わせています。

そうなると、きわめてマニアックな難しい問題が出題されたり、合格後に必要な知識や考え方を問うものではなく、問題を作る側に都合の良いようなテストになります。

私は、プロとして問題の解き方は教えられますし、まぁ、難問を解くこと自体、楽しいのですが、受験者の立場に立つと、将来に必ずしも必要な内容でないので、こういうテスト問題は、教えていて心苦しくなります。

最後に、普通の試験ですが、一般の定期試験、ある種の資格試験や標準試験に多く見られがちの、簡単すぎる問題をだしたり、問題を読まずに、選択肢だけで正解できるような問題も含めて、いろいろな難易度の問題を適当に含んだ、よくあるテストです。

これは、それなりに実力は評価できるものの、本当に理解して答えているか、わからないのが欠点です。クラスの成績や、1次試験的なものであれば、よく見られるような試験です。

そもそも、テストだけで実力を見たり、本人の能力を、はぐくんだりはできませんが、試験の質をチェックすると、試験結果の評価も変わってくるのではないでしょうか。

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日本は「教育に対する公的支出が43か国中40位」以上に考えなければいけないこと

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日本が教育大国であったのは、もう過去の話のようです。多くの点で、他の国よりもレベルが低くなっているのは確かだと思います。

これは、単に、教育政策の問題だけではなく、財政的にも問題があるようなのですが、私の考察では、もっと根深いものなのかもしれません。

そもそも、これは、何度も言っていることなのですが、日本の教育のやり方が数十年前とほとんど変わっていないことにあります。いろいろ導入しているのはわかるのですが、その作法といいますか、「とりあえず、やっておけばいい」という感覚がずっとかわっていないんですよね。

以前も、偏差値教育のほうが良くて、ゆとり教育で学力が落ちたと、という人たちもいましたが、それは表面的で、実は、余計なことはしたくないというか、上から言われたことだけやればよい、という感覚で仕事をしている部分が続いているからでしょう。

このような状況で、現在、受験の仕方ばかり議論されていますが、根本的に教育をどう考えるかという議論がほとんどありません。

また、教育制度を変えても、社会制度が変わらないと、元の木阿弥になることも考えるべきです。

それでは、どうしたらよいでしょうか?この問題は、一朝一夕に解決するものではないことを前提に、教育に絞って、いろいろとお話しします。

まず、ある程度、教育制度を自由化してもよいのではと思います。アメリカは、高校まで公立学校に行けば、学費は無料です。しかし、公立学校は比較的教師の質が悪いこともあるので、私立に行くこともできますし、学校に行かずに、家で、親や家庭教師が教えることも権利として認めています。

家で学ぶことをホームスクールといいます。批判として、他の友人との交流がないので、社会に出たら、人間関係でうまくいかないのでは、というのもありますが、統計的には、そうでもないようです。

また、アメリカを含めヨーロッパもそうですが、社会人になっても、職を変える時も気軽に学校に戻ってくることができます。日本だと、最近では社会人も多く学んでいますが、年齢によって画一的に扱う風土が強かったり、大学に行くこと自体ハードルが高いと思います。

また、日本では、教師に関するルールや法律が厳しい一方で、罰が軽い傾向にありますが、少し、ルールなども緩和して、逆に法を犯せば罰に徹するように変えると、人材の流動性やレベルの高い人材を多方面から募ることもできると思います。

また、資格や試験で選ぶ教師よりも、実力があるかどうか、さらに人間的に尊敬できるかどうかなども重要になってくるでしょう。もちろん、失敗もありますが、失敗から学んで善処できれば、長い目で見て成功できると思います。

結局、教育で重要なのは、教える教師の能力、経験、それとリーダーシップなので、現在のルール、法律、試験だけで教育を統制するやり方から、少しずつでもいいのでシフトしていくべきでしょう。

まだまだ、言いたいことはありますが、今日はこの辺で。

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日本人の持つ「教育神話」について議論する

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教育に従事して、10~20年以上たちましたが、日本の教育の本質、つまり、根本的な中身がほとんど変わっていないようなので、今回は、日本人の信じている、教育都市伝説なる物に関して議論していきたいと思います。

日本的な教育思想は、実は、アジア全体で共通している部分があるのですが、どちらかというと精神修養的な要素が強く感じられます。もちろん、そのような教育自体、悪いことばかりではないのですが、「これだけが正しい」となると、事実認識が異なることもあります。

例えば「若いうちに叩き込め!若ければ若いほど乾いたスポンジのように吸収する」に関してですが、いつも正しいとは限りません。若い子に勉強や、やりたくないことを無理に押し付けて失敗した親や先生は山ほどいます。もちろん、本人が自主的に興味を持てば、その通りですが、年齢に比例するとは限りません。

実は、大人になってから勉強される方も良く教えていますが、若い子より、よく質問しますし、本人の知識などと結びつけて、理解なども早かったりします。一般に大人のほうが、逆に知識がある分、興味も出やすい傾向にありますが、若い学生なんかは、早く宿題や勉強を終わらして、自分の趣味やアルバイトの時間を作りたいという人も少なからずいます。

したがって、子供の方が良く学ぶけれど、大人になったら勉強できない、吸収が遅い、というのは、ウソで、人によりますし、興味を持ったら、逆に大人のほうが、理解が深まります。

次に「テストで良い点数、高い偏差値を取れば、あなたは、その教科をしっかり理解している」に関しては、これも、そうとは限りません。日本ではいろいろな試験があって、それに合格すると「拝まれる対象」になりますが、テストの点数は、コツさえ覚えれば、取ることができます。

もちろん、ある程度は知っていないといけませんが、理解しなくても、点数を取ることはできます。以前、何人かの学生に、クラスに関する理解と成績に関して、非公式ですが、インタビューした結果では、成績が良いからと言って、きちんと授業内容を理解しているとは限りませんでした。

点数だけで判断してはいけない理由は、例えば、92点取った学生と、84点の学生と比べて、どちらがより理解しているかは、点数の高さでは測りきれません。また、84点の方が、より頑張ったり、本人の態度で、理解力や応用力を、後々、身につけられたりするので、ピンポイントの数字には、意味が無いことも多いのです。

それゆえに、私は、受験主義には反対しています。試験は、教育者が教育の仕方を柔軟に行ったり、修正したりするための指標であって、点数で学生の優劣を判断する材料に使われるものではないのです。

最後になりますが「良い大学に入れば、人生安泰だ」にも言及します。お分かりのように、必ずしもそうではないです。もちろん、人によりますが、大学に入るだけで、入ってから勉強しなければ、意味がありません。

実は、高校までに習う知識というのは、大学以降で習う内容からすれば、かなり限られているのです。ですから、大学に入ってから学ぶ知識を習得しなければ、人生にとって意味がありません。

アメリカなどでは、若いころに学んだ知識が通用しなくなったり、新しい仕事をするために、大学に再入学します。こう聞くと、当たり前なんですが、日本では、「偏差値の高い大学にうかれば、人生の印籠をもらったようなもの」という信仰があります。わかっていない人たちをだますのは簡単ですが、わかっている人たちからは、そのように振る舞うと、中身のない人だと思われるでしょう。

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2019年ノーベル化学賞の中身について、説明します

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受賞というのは、評価を受けたということです。「誰が」、というのは多くのニュースで話されているので、ここでは、「誰が何を」に絞って、科学的興味に基づいて説明しましょう。

完成に至るまでの内容は、基本的に、アメリカのジャーナル、Physics Todayの記事を参照しています。

まず最初に、電池のメカニズムは酸化還元反応にあります。放電過程では、陽極での酸化反応によりイオンが解放され、液体電解質溶液を通って陰極に移動し、還元反応を受けます。

一方、電子は接続された回路を通過します。再充電では、酸化還元プロセスが逆になり、イオンは陽極に戻り、別の放電サイクルの準備が整います。これは、電池のオリジナルのアイデアで、学校で習いましたよね。

スマートフォンや電気自動車などに電力を供給するリチウムイオン電池は、1973年の石油危機の少し前に始まりました。アメリカエネルギー委員会は、当時MITのリンカーン研究所にいたグッドイナフ氏に、フォード社のバッテリー開発者によるプロジェクトの評価を依頼します。

そこで、ナトリウムと硫黄を使用した溶融塩電池の実現可能性を吟味し、約1世紀前に開発された標準ではあるが時代遅れの鉛蓄電池を置き換えることに成功しました。しかし、1960年代後半までに、高い動作温度と腐食の問題により、これらのバッテリーに実用面で問題が生じてきました。

当時エクソンの研究科学者だったウィッティンガム氏は、電気自動車に電力を供給するだけでなく、オフピーク時に太陽エネルギーを蓄えることができる低温高エネルギーのバッテリーを検討しました。そのため、1976年に二硫化チタンの陰極とリチウム金属の陽極を組み合わせたバッテリーを開発しました。

リチウムの標準還元電位は-3.05 Vと低いため、高密度で高電圧のバッテリーセルにとって特に魅力的でした。ウィッティンガム氏の設計では、TiS2(二硫化チタン)構造の層間に挿入し、酸化還元反応中にリチウムを可逆的に保存する手段を提供したのです。

ただし、リチウムは高い反応性を持っており、危険な反応を避けるために空気や水から隔離する必要があります。ウィッティンガム氏は、数年前に実施されたリチウム電気化学実験で他の研究者によって慎重に設計およびテストされた非水電解液を使用することにより、この問題を解決しました。

これは大幅な改善でした。ウィッティンガム氏のリチウムイオン電池は、鉛電池よりも高いセル電位を持ち、2 Vと比較して2.5 Vでした。しかし、ウィッティンガム氏のリチウムイオン電池は安定していませんでした。放電と再充電を繰り返した後、リチウムの細かい糸のような結晶が陽極上に成長します。最終的に、それは陽極と陰極を隔てる障壁を破るのに十分大きくなり、電池は短絡したり爆発したりします。

1980年に入り、グッドイナフ氏は、その問題を直接解決はしませんでしたが、陰極用のはるかに優れた材料を思い付きました。オックスフォード大学の水島浩一氏と、彼の同僚とともに、コバルト酸化物リチウムが陰極に使用できることを発見したのです。

TiS2と同様に、酸化コバルト構造にはリチウムがしっかりと挿入されているため、陰極に十分なエネルギー密度を提供できます。酸化コバルトの構造と電位の関係に関するグッドイナフ氏の洞察により、電池の性能が向上しました。

電圧は2.5 Vから4 Vに増加し、新しい電池はウィッティンガム氏の設計よりも改善されましたが、システムは依然として陽極として反応性の高いリチウム金属を使用していたため、企業は電池を商業規模で安全に製造できませんでした。

1985年に旭化成株式会社で働いていた吉野氏が陽極の材料をグラファイト(黒鉛)に置き換えました。これは電気化学的条件で安定しており、グラファイトの結晶構造に多くのリチウムイオンを収容する構造になっています。

ケンブリッジ大学の化学者であるクレアグレイ氏は、グッドイナフ氏のリチウムコバルト酸化物の陰極と吉野氏のグラファイトの陽極を使用して、「もう、爆発などから身を守る大掛かりな実験施設なしで、電池が組み立てられるようになった」とコメントしています。

さらに重要なことは、グラファイトの陽極は軽量であることと、電池の性能が低下する前に数百回充電できることです。その後すぐに、ソニーは旭化成と提携し、家電製品のすべてのニッケルカドミウム電池をリチウムイオン電池に交換しました。

これが、リチウムイオン電池の実用まで至る経過です。もちろん、細かい技術や科学的な試行錯誤もたくさんあったと思いますが、このようなメカニズム自体が、電池のみならず、他にも応用できると面白いですね。

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本当の教育は、クイズ王を育てるのではありません!

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クイズといえば、誰が勝つか、どのチームが優勝するかを演出して、見ている人たちも興奮する番組を思い出すと思います。昔、日本であった「クイズ100人に聞きました」は、知識に関する問題ではないですが、チームに分かれて勝負をする形式です。このクイズ番組、元々、アメリカの番組をまねしたもので、アメリカでは、今でもテレビでやっています。

他にも、「アメリカ横断ウルトラクイズ」というのもありました。これは、個人戦で知識を競い合うタイプのクイズです。

最近では、いわゆる、日本の小中高で出題されるような知識を問題にするクイズ番組が多く、クイズと受験、大学名などを紐づけた感じで、視聴者を引き付けているようにも見えます。

まぁ、ショーとして、見る分には、楽しいですし、問題はないのですが、実際の教育とクイズ王になることとは、違うのでは、というお話をしたいと思います。

そもそも教育とは、必要な「道具」の使い方を教えながら、どのように未来を切り開いていくか、また、切り開くにあたって、過去の偉人たちがどのように対処したのか、その判断は、今でも有効か、など、個人の人生と、コミュニティ、国家、世界とのかかわり方を育んでいくものです。

小学校では、「道具」、すなわち、言語や数字の使い方を主に学び、それをもとに、基本的な知識を習得します。中学校では、より、高度で複雑な知識と、それをもとに身の回りを超える知識に触れていきます。

そして「最後」に高校では、大学入学のために「クイズ王」になる訓練を受けます。ある意味、中学レベルでも、受験のためのクイズ王養成といってもいいかもしれません。

これは、知識を切り取って、それが答えとなるような問題を作り、それが出題されると、素早く、しかも、正確に、期待された答えを答えるという動作を繰り返すものです。

ほとんどの人は、「これの何が問題なんですか?」と聞きたくなると思います。もちろん、訓練そのものは、悪いことではないですが、それだけに集中すると、結局、社会にとって意味のない人材を育ててしまうことにもなります。

まず最初に、クイズ王になるには、何をしているのでしょうか。当然、問題の研究をします。次に、いかに素早く、解答するかを訓練します。また、いかに多くの点を取るための戦術なども学んでいきます。

これをやっていれば、確かに、クイズ王(受験の勝者)になれるでしょう。しかし、このような知識が、現実に使えるのでしょうか?

「こうきたら、こう答える」だけの訓練を受けている人は、前例がなければ、立ち往生します。そして、問題のたらいまわしか、先送りをしてしまうでしょう。

断片的な知識を習得してきた人は、その知識の適用範囲を間違えてしまうこともあります。例えば、憲法の条文を個人に適用するような間違いも、そういうところから来ています。また、その知識をもとに議論もできない人も多くなります。

あとは、点数主義に陥りやすいので、点数にならなければやらなかったり、点数を取るために、「ズル」をしたり、点数さえ取れれば、それ以上やらなかったりします。

また、上から与えられっぱなし、つまり、問題を出題されてから実力を発揮するだけの人たちなので、自分から問題を発見できない、すなわち、問題意識が低くなる傾向にあります。

世の中を見ていると、立派な肩書を持つ、政治家、官僚、また、その他の業界人が上のような人材になっているように見えるのですが、単なる錯覚なのでしょうか?

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