教育というのは、微分積分のやり方だけを教えることではありません

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いろいろとやることがある中で、勉強するというのは、時間的にも大変ですし、理解するのにストレスもたまります。ですから、なるべく簡単に、短時間で、すぐ使えることだけを学びたい、というのが大方の望みではないでしょうか。

それでは、いわゆる「やり方」だけを教えることが、教育として意義があるのか、論じてみたいと思います。

ある会社のCEOによると、社会に出て活躍できる人は、大学などで学ぶ一般教養を身につけることがキーとなっているようです。例えば、コミュニケーション、分析力、も含めて、数学、技術、科学の素養も、キャリア一般に役に立っているとのこと。

確かに、自分が小中高と学んだ、美術、技術、家庭科、書道が、人に何か伝えたり、物を作って完成させる感覚に役に立っているように思えます。具体的に言うと、美術で学んだ、奥行きの表し方や絵での表現が、教育に役に立ったり、研究結果を表すのに役に立っていました。

スティーブ・ジョブズも、カリグラフィーという、字を美しく見せるための手法を教えるクラスに魅了され、それが、その後のアップルでの仕事に役立ったと言われています。

ある国(ある地域)では、数学、英語、工学など、仕事を得るのに必要な科目しか教えない所もあるようです。一概に言えませんが、そういう学習法では、上から言われたことをやるだけならともかく、仕事や人生に幅が出ないような気がします。

また、2018年のギャロップの調査によると、簡単にパスできる講義より、ちょっと努力しないと取れないような、チャレンジングなクラスを取った人たちの方が、そうでない人たちより、約3.6倍も、社会に出ていくにあたって、良く準備ができていると感じるらしいです。

最後に結論的に申しますが、受験だけを目的とした、授業は、本当の教育なのかどうか、でしょう。上の議論から言えば、キャリア的には最短距離になるかもしれませんが、長期的には、幅のない人材を作るような教育になりかねません。

また、受験で苦労した分、大学ではチャレンジングな学習をしていないとなれば、社会に出る前に十分鍛えられていない人が多く輩出されるでしょう。

一部の優秀な人たちは、どんな境遇にあっても、何とかやって行けますが、教育の役割は、そうでない一般の人たちに実力をつけるというものです。果たして、現在の教育機関は、本物の人材を作るような効果的な仕事をしているのでしょうか。

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日本の社会人の熱意から見る、教育の闇、とはなにか

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これは、いろいろな本にも書いてある事実なのですが、日本の「熱意のある会社員」の数が、世界に比べて以外にというか、驚くほど低いらしいのです。(米ギャラップ調査2017年、熱意のある社員は6%で、世界ランクで132位)

働くのにやる気などが感じられない人が多い割に、いわゆる、「働いている」時間は、世界的に見ても長いようなのです。

おそらく、昔はそうでなかったと思うのです。もちろん、みんなが共有する常識や環境が違ってきたのも一つの原因でしょう。しかし、米国の32%に比べても極端に低いのです。

この原因に関しては、いろいろな分析がされていますが、原因は1つではないという仮定から、ここでは、少し違った視点でお話したいと思います。

私の立場からは、日本の教育システムが、数十年もの間、現在の状況に合わないのにもかかわらず、同じことをしていることが原因だと思われます。

日本の教育の目的は、明らかに大学受験だけです。昔もそうだったのですが、昔の仕事は、むしろ中学レベルの知識が重要だったので、大学自体は単なるステータスでした。しかも、中学や高校だけ出ていても、充分社会的に成功できたという環境でもありました。

現在のように、技術も進んで、グローバル化が進む中でも、ほぼ同じような教育、つまり、公式を覚えて、それで解ける類題を早く正確に解くだけの訓練では、自ら仮定を立て、実践しながら、いろいろと構築していくような人材は育ちません。

教育システムの硬直化は、社会システムそのものに波及していきます。20歳くらいまでやってきたことを、急に変えることは、ほとんどの人にとって難しいのは当然ですよね。

危機感があっても、また、変えないといけないと思っても、どうやって変えたらよいかの教育を受けていなければ、結局、現状維持です。フラストレーションをためながら、とりあえず、職があって、給料をもらえれば、それでいいか、となってしまうのは、火を見るよりも明らかでしょう。

こういう視点から見ると、アメリカも似たような部分はあるのですが、アメリカでは、あまりしがらみを作らない文化があり、また、流動性もあり、学校も職場もやり直しがきくので、そういう自由なシステムが何とか受け皿を作っているのではと思います。

日本は、教育システム、社会システムともども硬直化してしまっているというのと、それを見ても見ぬふりする文化が、最悪な方向にしてしまっているような感じなのです。

解決法としては、現在の日本の教育システムを解体することでしょう。新規参入のための規制緩和、もちろん、緩和だけでは、劣化の方向に行くので、市民団体による監視や評価も社会的に広めていくことが必要です。

教育も人間の権利なので、国民が選べる、評価できる方向に行けば良いと思います。

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欧米とアジアの教育方針の違いにおける長所と短所

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今回は、少し教育に関して世界を俯瞰してみましょう。私も、すべての国々の教育を実体験してはいないのですが、米国において、いろいろな外国人とお話する機会があったり、日本の現状や、アジア全体の教育の傾向が似ている点から、大きく分けて、欧米型とアジア型の教育方針を論じてみたいと思います。

欧米型の特徴は、自由な学習と発見法的なやり方で、生徒を学ばせる傾向が強い感じです。これは、欧米では、科学が発展してきた歴史があるので、科学者が学ぶ過程をお手本にしているようです。

その派生の手法として、才能のある生徒を集めて教育する、Gifted Education というものもあります。とにかく、できる子や、やる気のある子たちを集めて、目いっぱい教えるという形です。

フィンランドなどもそうですが、基本的に自由で、生徒の自発性を重視しますので、留年するのも良いですし、進学する前に、他の体験をしてみるのも社会的に受容している感じです。

一方で、日本を始め、アジア的な教育は、修身的な、体育会系的な形で、競争を主体に教育する形でしょうか。もちろん、バリエーションはあるのですが、基本は、教え込んで、実践させ、それが教師の満足に至れば(もしくはテストで点数が上がれば)「受け入れられる」とするような教育法です。

(全てのアジア諸国が同じではないと思いますが、韓国、中国、インド、ネパールや中東諸国の人たちの話から、結構、似たようなカリキュラムらしいです)

みんなで一斉にという傾向もあり、追いかける目標の価値も一つにして、何をするのかはっきりさせます。また、社会も、その価値観に沿うことが、子供の幸せにつながる、という考えを共有しています。

ここで、両者の利点と欠点を議論してみましょう。欧米型の利点は、自分で選べる満足感と、幸福の価値観も自分と他人で尊重し合うことができることが一つです。また、発明や発見など、長い期間をかけて従事することや、創造的で面白いことを積極的にやっていける環境を促進しています。

一方で、欧米型の欠点は、競争心を養わないので、落ちこぼれていく子も多く、彼らを救済する方法論が確立できていないか、自主性を重んじるために、放置する傾向もあります。また、教師の質もばらばらで、良い先生に当たれば、能力は上がるのですが、そうでなければ、全く学べない状況に陥ります。

アジアの教育はどうでしょうか。まず利点ですが、短期間で能力を上げられるノウハウは、天下一品でしょう。また、みんなで一斉にそのような教育を受けるため、能力差もそれほどなく、良い人材を多く輩出でき、国力を上げることも容易に行えます。

しかしながら、欠点は、ご存じのように、行き過ぎれば、点数を上げるだけの競争に陥ってしまい、何のための学習なのかの意義を社会全体で見失う傾向にあります。(それによる、不登校や自殺などの社会問題は、アジア的な問題です)

また、目標があれば、それに向かうことができるのですが、目標を見誤ったり、そもそも、多様化が進んで、目標も自分で試行錯誤しなければいけなくなると、アジア的な教育では、全くと言って歯が立たなくなります。というのも、学校では、教師から与えられる問題を速く正確に解くことを中心に訓練されてきただけなので、それ以外のことがなかなかできなくなってしまうのです。

恐らく、これから未来の教育を語るにあたって、欧米型とアジア型の融合になっていくと思います。これは、いわゆる緩急をつけた教育方法になりますが、単なるマニュアルを超えた形での教育で、本当に分かっている教師が、リーダーシップをとって行う教育になっていくでしょう。

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国語力に意外と必要な、科学的考え方

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最近、テレビ、ネット、ラジオ、雑誌や新聞において、人々のコメントを見る(聞く)に、特徴的な話し方に気づきました。恐らく、その人の教育(教養)によって変わるのでは、と思われます。

人によっては、「右翼だ!左翼だ!」と言ったり、「親日だ!反日だ!」という感じで判断する場合もありますが、それよりも、もう少し細かい反応について話したいと思います。

よく話を聞いていると、ある人は感情を優先しながら、自身の意見を広げていくように話をします。例えば、「二人とも、今まで一生懸命やってきたんだから、何とかこれからも仲良くやっていけたら...」とか、「この件については、あっちも悪いけれどこっちも悪いから、いろいろ反省しないと…」などです。

また、「お前が言うな」みたいに、笑いを誘うようなものもありますが、終始、人々の同情を組み込んだような話の内容になっています。

一方で、物事の問題点を指摘して、他の国や違う時代と比較しながら、それに一定の解答を与えるようなコメンテーターもいます。

ある意味暴論かもしれませんが、この2人の違いは、教育から来るのではと考えられます。

日本の国語の授業は、どちらかというと、著者や登場人物の気持ちや心理状態を問う問題が多い感じです。他にも、何文字以内に状況をまとめるようなものもあります。

つまり、いかに人々の感情を読み取り、うまくまとめるか、という訓練が行われてきていて、前者のコメンテーターがこれに当たります。

一方で、アメリカの国語(英語の授業になりますが)では、いかに論理的に自身の考えを伝えるか、だとか、いかに、相手を説得するために、仮説と証拠を用意して、結論付けられるか、という訓練が行われています。

一般的な日本人の会話の多くが、感情を考慮しながら、まとめることで、混乱を防ぐような議論をしがちだということです。

一方で、欧米などで教育受けたり、科学系を専攻していたり、積極的に本を読んで勉強をしている人は、問題を把握し、それに対する分析や証拠の列挙と、取り得る解決策を言うことができます。

私の持論でもありますが、日本では、科学的な教育がしっかり定義されていないというのが現状です。

中には「いや、日本人のPISAにおける数学や科学の成績は世界的に見てよいではないか!」という人もいますが、そのテストは、知識のテスト(考え方もありますが)であって、科学的な考え方を、教育界が訓練して育んできた結果ではありません。

つまり、科学的な思考法というのは、国語であったり、いわゆる、文系と言われるものにも重要な役割を果たしています。そもそも、理系・文系と分けるのに教育的には意味がないということなのです。

教育が人を作ります。また、人が国や世界を作るのですから、正しい教育がいかに大切かがわかると思います。

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「試験主義の間違い」これだけある、私の経験

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資格試験や受験など、特に日本やアジア各国では、試験中心に社会が動いています。みんなで一斉に受けて、その点数だけで合否が決まるという点では、アメリカなどにおける試験の扱い方と比べて顕著に違うでしょう。

ここでは、このような試験主義に問題があるという点を、理屈ではなく、私や他の方の経験談からお話ししたいと思います。

昔読んだ、ある評論家の本の中のお話です。国家公務員、上級試験に合格した大学卒業したばかりの若者にインタビューした内容でしたが、彼らは「日本を変えたい」など、これからの仕事に対する意欲は素晴らしいものがあったようですが、「どのように変えるのか」だとか「なぜ、変えるのか」など少し突っ込んだ質問には答えられなかったそうです。

次のお話は、私が学生から直接聞いたものですが、選択肢のあるテスト問題だと、問題を理解せずに、正解の確率が高いものを見つける方法があるようです。また、選択肢がなくても、正解に近い答え方もあるとのことです。

また、最近の話で、ある理系の資格試験を取った方からの相談だったのですが、「試験には合格したのだが、その原理や計算の詳細がほとんどわからない、ので是非教えてほしい」という依頼がありました。

恐らく、似たような話は、みなさんの身近にもあると思います。上にあるように、理解していなくても点数が取れる、というのが試験には根本的に存在します。

公務員試験の話に関していえば、難しい試験に合格さえすれば「神様」みたいに信仰されるような雰囲気が社会的にありますよね。しかし、若くて記憶力さえあれば合格できるけれど、経験も実績もないから、結局、現実に直面すると何もできないような人材を増やしているようにも見えます。

受験、定期テスト、資格試験にも共通するのですが、過去問などやっていて、あるパターンが見つかれば、それに沿って答えれば正解になるということです。つまり、内容を理解していなくても、合格できる可能性があるのです。

ここで言いたいことは、試験が不必要であるということではなく、社会が、人々があまりにも試験を重視しすぎることの懸念にあります。

難しい試験に合格したからと言って、その内容を理解しているわけではないのです。それなのに、合格しただけで「すごい」と思ってすべての実力を信頼するのは、長い目で見て社会にとって問題になるでしょう。

試験を行うことの長所と短所を踏まえたうえで、試験の位置づけ、人の雇い方、教育の仕方、経験のさせ方など総合的に議論していくことが大切だと思います。

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今日、本屋で久しぶりに高校の数学・物理のカリキュラムを確認してきました

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最近、社会人の方にも高校数学や物理を教える機会も増えました。かなり長い間、米国の大学のカリキュラムで教えていたので、日本のが懐かしく感じられます。

しかしながら、社会人の方も、「高校の数学ってちょっと現実社会に合ってないよね」という意見も聞くことが多いので、今日は少し、その辺のお話をしようと思います。

基本的に、日本の高校のカリキュラムは、ここ何十年も変わっていないようです。もちろん、マイナーチェンジはいろいろあるともいますが、いわゆる、原理原則は全くと言っていいほど変わっていないようです。

端的に言えば、「公式」を切り取ってきて、それで解ける問題や類題を紹介するだけの学習カリキュラムです。

本屋で確認したのですが「なぜ」という問にも答えないですし、その背景の説明もほとんどないような参考書ばかりでした。

いまだに、受験ビジネスのための無味乾燥な内容を教えているのか、とため息が出ましたが、逆に、今まで日本人は受験には関心があっても、教育には関心が無かったことも残念に思います。

この間、ある高校生の親御さんが言っていたのですが、「塾なんかでも、儲けのために授業は多くとらせるのだけど、練習や学習をさせる時間をもうけない」とのことです。

「我々は、何のために学ぶのか、何のために学問を追い求めるのか」という感覚が不在なんですよね。

私も、もう少し頑張らないといけないと感じた今日この頃でした。

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働き方改革と教育改革ってどこか似てませんか?

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「改革」と聞いてどのような気分になるでしょうか。やはり、物事が良くなっていくと感じる人が多いと思います。

しかし、教育改革と聞くと、「ゆとり教育」のこともあり、少々、警戒してしまう雰囲気もあるようです。今日は、なぜ、ある種の改革がうまくいかないのか議論してみたいと思います。

当時、ゆとり教育への改革は、経済界からも世論からも、偏差値教育では、立ち行かないことから提案されたものです。つまり、詰め込んで教育するのではなく、考える余裕のある、自主性を重んじた教育を目指したものでした。

そこで、この教育改革を遂行するためにどのような議論が行われたのかというと、「考える余裕を持てるために、どれくらいカリキュラムを削減すればよいか」というものでしかありませんでした。

結局、うまくいっていた部分もあったようですが、「そのおかげで学力が下がった」という世間一般の評判から元の木阿弥になってしまいました。もちろん、受験ビジネスにとっても不都合だったところもあるでしょう。

そもそも、変える気が無かったと言えば、それまでですが、所詮、ルールや外枠を変えたからと言って、うまくいくようなものではないのです。教育にはいくつもの過程と評価があり、学ばせる過程というのも一筋縄には行かない大変なお仕事だからです。

2019年現在も、政治家から、「反受験」などをかかげた教育改革が始まるようですが、上で申したように、同じようなやり方ではほぼ確実に失敗するでしょう。

このように、成果が単純に判断できないものを変えるのは、思っている以上に難しいのです。そういう意味で、「働き方改革」も同じように言えるでしょう。これも、ルールや枠組みだけ厳しくすれば、どこかにしわ寄せがくると思います。

それでは、どうしたら良いのでしょうか。まず、ルールナンバーワンとしては、プロジェクトを遂行、貫徹するには、状況に応じて軌道修正したり、人事などを変更したり、臨機応変にできる環境でなければいけません。つまり、最初にやり方やルールを全部決めて、その通りにやろうとするのは、厳禁です。

それをもとに、次のことに留意するべきです。まず、すでにそのような教育で成功している組織や個人を推薦で選び、彼、彼女らにどのように遂行するか、予算、時間的計画などを書いてもらいます。それに準じて、予算などを配分するというかたちです。

当然ですが、既得権益にお金を配布して、やったふりは、一番いけません。この際、過去のやり方を「壊す」勢いで改革しましょう。

これで、うまくいけば、周りの人や組織が真似しだします。市場では、良く起こることです。その先は、それなりに淘汰されたり、修正されたりして行くでしょう。

もう一つは、教育でも働き方でも、コンサルタントを雇って変えていく方法です。これも、補助金など出しながら、コンサル前後で評価して、より良いコンサルタントが活躍できるようにすればよいでしょう。

もちろん、上にあげた方法が両輪として機能できれば良いと思います。また、世間一般で教育とは何なのかの議論も浸透すると、より、教育が民主的に改革できると思います。

いずれにせよ、受験勉強のように「安易に答えを求める」方法に終始してしまうのは、失敗を招いてしまうので注意すべきです。

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学生に「答えが合っているんだから導き方なんて関係ない」と言われてなんて答えますか?

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先日、ラジオで「僕は算数の答えがすぐに思い浮かぶんだけど、その導き方を書くのが苦手で。。。」みたいな話になって、「良く、子供は、答えさえ合っていれば導き方なんてどうでもいいでしょ」という会話になってしまう、ということを話していました。

しかし、教育の中で、「答えさえ合っていれば良い」となれば、様々な問題が生じてしまいます。今日は、そこら辺を少し掘り下げて議論してみたいと思います。

「答え」というのは、どこから来ているのでしょうか?当然、問題を作った人が用意したものです。でも、これが合っているのかどうかは、いろいろな形で確かめられています。

それでは、たまたま答えたものが、用意された答えといっしょであったとしたら、「大正解」といえるでしょうか?もしかしたら、類題を出されて、今度は間違ってしまうということもあるのではないでしょうか。

算数・数学や物理などの数理科学は、ギャンブルではありませんし、多数決で答えが決まるものでもないのです。たまたま合っているような答え方をすれば、予測が当たったり、外れたりで使い物になりません。

そもそも、数学やそれを使う科学は、予測可能な方法を確立するもので、それに欠かせない事として、途中経過が合っているかどうかが重要になります。

途中経過が間違っていれば、条件が変わるごとに、合っている答えを出したり、間違っている答えを出したりしてしまいます。

そして、途中経過が記録されていれば、答えが間違っていても、さかのぼって検査することができるのです。そこで、正しい方法に修正して、どのような条件でも正しい答えを出すように、世の中の大人は、会社や研究所などで、このようなことをやっています。

答えさえ合っていればというのは、ある意味、無責任なことであって、しかも、修正やその先の創意工夫までもあきらめてしまっている態度なのです。

教育の現場では、答えが合っているだけではなく、途中経過もきちんと精査されることがいかに将来に重要かも教えられれば良いですね。

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教育が良ければ世の中変えられる!

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世の中、教育改革と言われて久しいのですが、なんか、変わったような感じがしない、というのが本音ではないでしょうか。

もちろん、今までいろいろな修正や変更が行われ、良くなっている部分もあります。しかしながら、効果を得るまで時間がかかるため、常にその評価が難しくなるのも事実です。

ここで、教育に関するいくつかの誤解についてお話ししましょう。まず、「子供の時から一生懸命教え込めば、どんどん吸収する」というものですが、必ずしもそうではありません。

また、「大人になってから学ぶのは大変だし、無駄」というのも、正しくはありません。つまり、子供だろうが、大人だろうが、やる気がなければ、効果的に学べないのです。もちろん、才能などがあるので、学べる早さなどは個人差がありますが、年齢に関しては、それほど関係ありません。

実は、若い人は経験がないがために、何を学んでいるかわからなかったり、質問する素養もなかったりしますが、逆に大人が大学に戻って学ぶのを見ると、学ぶ大切さを知っていたり、もっと知りたいという感覚も若い人よりも強かったり、質問も多様な経験から鋭いことを聞く人が多いです。

学生だけでなく、教師も重要な要素になります。彼らのクラスマネージメントや教科の知識も、学習には重要な要因になっています。

つまり、学生のやる気と、教師の能力が学習効果を最大限にできるのです。「当り前じゃないか」という人もいると思いますが、意外とわかっていない人が多いと思います。

実際、現実はどうかと言いますと、学びの質より、とにかく、テストで点数が稼げれば良い、とか、資格さえ取れれば、内容なんてマスターしなくても良い、とか、高校(大学)さえ入学できればいいんだ、など考えている人たちの方が多いのではないでしょうか?

一見、一生懸命、勉強しているようで、その考え方が結構、自分勝手になっていますよね?合格さえすればよい、という考え方は、自分さえ良ければそれでよい、となります。

「こりゃ、けしからん」とお思いでしょう。でも、こういう態度を世間的に許しているんですよね。実際、社会を見ると、人の見ていない所で自分の利益だけを考えて公の利益なんてどうでもいい、という人たち、多くないでしょうか?

もしかしたら、日本では、このような考え方を、現行の教育から学んでいる人たちが少なくないということですね。

「教育改革による○○教育に期待!」という、上からあたえられたものよりも、そろそろ、教育に対する根本的な態度に関して考えていくのが大事ではないでしょうか。

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日本人が教育も政治も改革できない理由。。。

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瀧本哲史氏の本、「戦略がすべて」に次のように書いてありました。「ほとんどの日本のビジネスマンは『高級作業員』にすぎない。いくら大企業に勤めていようとも、テンプレート化された仕事をより早く、より効率よく行うルーチンワーカーなのだ。」

この文言、実は、教師に関しても当てはまるんです。ほとんどの教師や教授も高級作業員でしかなく、テンプレート化された授業を、より効率よく行うルーチンワーカーともいえると思います。

実は、この事実、日本を作っているほとんどの「部分」に当てはまるところがあって、それが、政治家も含めて、いろいろなところで言えるのです。(もちろん、一部の素晴らしい組織はありますが)

例えば、組織内に問題があって、第3者委員会を設立して原因を追究する、など、ほとんどうまく行えないですよね。

また、よく外国から来て日本に住んでいる人が言われているのが「店員がマニュアル通りにしかやらないので全然融通が利かない」とかいうのも、似たような現象です。

なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか。私が見る限り、戦後、日本が行ってきた「ヘタレ教育」が原因だと思っています。ヘタレ教育というのは、まさに効率を重視して「お上」が絶対権力を行使して、教育を実質、統制するやり方です。

「そんなことはしていないし、法律上そんな民主主義に反することができるはずない!」と反論される方もおられるでしょうが、事実、教育委員会やそれに準じた組織が、ほとんどを仕切っていて、偏差値・順位などで生徒らを裁き、教育に対する選択肢が少ない状況では、そう言われても仕方のない状態が続いてきました。

したがって、上の例のように、マニュアルに従って、マニュアル通りにやるだけというのが、ほとんどの日本人の仕事の仕方になっていることからも、よくわかると思います。

このような教育を受けてきた人たちが教育や政治を変えるのは、そもそも無理だということがおわかりでしょう。

解決策はいくつかありますが、現在の教育を変えるのは、ほぼ無理と考えたうえで、「ヘタレていない教育」ができる人や組織で学べる選択肢を増やしていくことと、その組織への社会的評価を透明化することが一つです。

そこから輩出される教育者が広がって、効果が出ると、周りは真似せざるを得ないでしょう。もちろん、言うほど簡単ではないでしょうが、わかっている人がリーダーシップをとれるような環境、それが一番大事、なのです。

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