「近似的手法」にみる物理学の奥深さと科学的視点

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「今回は『近似』という方法を物理が取っていることが気になって、師匠にお聞きしたいんですが…」
師匠「例えば、どういうことじゃ?」
秋山「そもそも、なぜ近似という、いわゆる、曖昧というか、大体のことを精密科学である物理が使うんでしょうか?」
師匠「昔、話したが、きれいに、精密に解けるケースというのは限られているのは知っておるじゃろ?」
秋山「はい、確か、三つ以上の同じくらいの大きさの物体が引き合う運動でさえ、厳密な方程式の解が関数で表せないんでしたっけ?」
師匠「そうじゃ。」
秋山「だとしたら、コンピュータで全部計算させれば近似なんて使わなくていいんじゃないでしょうか?」
師匠「いい質問じゃ。決して間違ってはいないが、近似法には大きく分けて2つの利点がある。もちろん、他にも細かい理由があるかもしれんが、今回は2つに絞る。」
秋山「わかりました。」
師匠「まずは、物理システムの数理的な考察をするのに、なるべく数式をシンプルな形で残す、という部分に近似の意義があるんじゃ。」
秋山「なるほど。」
師匠「つまりじゃ、数式が残っていれば、数学的な洞察が働く、それで、いろいろと理論的な考察がしやすくなる、ということじゃ。いきなりコンピュータを使って、結果だけだしても理論的な発展がおろそかになってしまう。」
秋山「確かに、コンピュータの結果だけでは、方程式を変えた結果が見えても、方程式そのものを洞察できないですしね。」
師匠「ま、これは科学者のセンスにもよるが、近似法を学ぶことで物理的性質を思い浮かべられるっちゅうやつじゃ。」
秋山「もう一つは何ですか?」
師匠「これは、コンピュータ・シミュレーションにも関係するんじゃが、物理システムが大きくなったり、物体が増えれば、計算量が増大になる。」
秋山「現代のコンピュータでもですか?」
師匠「うむ。もちろん、ハードはどんどん良くなるが、物体などもどんどん増やせる。それを、まともに解くと、何年も、何十年も、下手をすれば、我々が生きている間に答えが出ない場合もある。」
秋山「え、それはすごいですね。」
師匠「そこで、近似を施せば、余計な計算を防げるんじゃ。もちろん、コンピュータプログラム自体にも近似を使うが、これで、かなり時間が短縮され、しかも、結果の誤差も小さく収められる。」
秋山「うーん、なるほど。近似は単に『大体の結果を求める』以上に、科学を発展させるための方法論の一つだったとは。勉強になりました。」

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ノーベル賞の意義を人々は理解しているのでしょうか?

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「いままで、科学の話やノーベル賞などの話をしてきましたが、ノーベル賞に関して、少しお話ししてもらえますか?」
師匠「特に日本人は、ありがたがるな。(笑)上からのお墨付きというか、そういうものに弱いんじゃな。」
秋山「そうですね。気持ちは、ある程度わかるのですが、日本人が取ったからという理由で、お祭り騒ぎをするのは、ちょっと行き過ぎのような。。。」
師匠「ま、そういうことは置いといて、ノーベル賞は、ノーベルがダイナマイトを発明したことが、戦争に使われ、それを通じて多大な利益を得たっちゅうことで、自責の念が生じてしまった。その罪滅ぼしで、世界平和に貢献したものに賞金を与えてくれ、という遺言を元に作られた賞じゃな。」
秋山「そうですね。でも現在は、少し趣が違ってきてはいますね。」
師匠「うむ。ある程度、その分野や世界への影響力を考慮しながら、独自の視点で賞を与えているような感じはする。」
秋山「しかし、人間が人間を評価する点で言えば、たとえノーベル賞でも完ぺきではないですよね。」
師匠「政治的な影響も考えたりもしているらしいし、過去には、ノーベル賞を受賞した研究結果が間違いだとわかったものもある。」
秋山「たしかに、平和賞や経済賞に対する批判は、よく聞きますね。」
師匠「一方で、ノーベル賞は、市場では、なかなか日の目を見ない作品や貢献を、ある意味、意図的に評価していると思える。」
秋山「単に売れているものとか、人気がある物に授賞していないようですね。ま、そういうのに授賞する賞は他にもいろいろありますしね。これは、明らかに政治的に表彰しているだろう、っていうのもありますしね。(笑)」
師匠「そういう意味で、ノーベル賞を観賞すべきであって、この受賞が人類にとって何を意味しているのか、考える機会にしてほしいんじゃ。」
秋山「んー。そうですね。日本人が取ったからといって、お祭り騒ぎしたり、日本人が取るかどうかだけでノーベル賞を見るのは、ちょっと稚拙なのかもしれませんね。」

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科学的な考え方を社会の見方に応用すると。。。

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師匠と秋山くんの会話の続きです。

師匠「さっき言った、数値の基準とか数値そのものは、科学的考え方ではない、というのは、社会を見る視点にもなるのじゃ。」
秋山「そういう意味で、文系と理系という分け方は、絶対的ではないということですね。」
師匠「その通りじゃ。まぁ、物の見方という点では、哲学にも通ずるが、物事の分類というのは、条件をもとにした相対的な視点を与えるだけでしかない、ということを頭に入れとかなければならない。」
秋山「で、社会を見るにおいての科学的視点とはなんでしょうか。」
師匠「おお、忘れとった。わしにとっての専門ではないが、法律に対して科学的視点がないと、社会を正しく運用できないのでは、ということだ。」
秋山「つまり、法律の文言にとらわれていれば、その背後にある理論を無視しがちになるということですか?」
師匠「そう。どのような背景において、その法律が作られたかを理解していなければ、誤った方向で適用されうる。本来は、社会全体をうまく回せるように制定しているものだから、法律の文言に対して重箱の隅を楊枝でほじくるようなことをしても意味がないのじゃ。」
秋山「確かに、世の中の議論を聞いていると、いつの間にか、どうでもよい点で右がいいのか、左がいいのか、ってやってますね。あ、僕もそんな質問を師匠にしてましたね。(笑)」
師匠「法律に書かれているものは、絶対的な悪とは限らない。例えば、文化に依存する法律もあるじゃろ。」
秋山「えーと、飲酒とかですか?」
師匠「それもあるな。イスラム教の国の全てではないが、厳しい所では、法律で禁止しているし罰則もある。まるで、危険な薬物のような扱いじゃな。」
秋山「賭博はどうでしょう?」
師匠「イギリスでは合法で、いろんなことがかけの対象になっているが、日本では、合法化されているものとそうでない行為があるな。」
秋山「この件に関しては、議論されるべき課題ですよね。経済的活性化を狙うための規制緩和、一方で、中毒者を創出してしまうリスクをどうするか、胴元が必ずもうかるシステムを野放しにする社会的な危険性など、社会全体で細かい教育や、リテラシーなどが重要になりますね。」
師匠「法律は最低限の倫理、と言われるが、これは、社会がうまく回るための「タガ」として有効なだけで、行為の倫理的判断は、その背後、もしくは、もっと上のレベルで行われる。」
秋山「規制強化や規制緩和も市民の社会活動を調節しているだけで、善悪の倫理判断ではないですしね。」
師匠「我々市民は、法律の表面的な文言に入りすぎたり、法律と倫理を一緒くたにするような議論には気をつけねばならない。」
秋山「そうですね。」
師匠「わしは、物理を教えてきたが、物理でも同じことがある。これも、数値や公式だけにこだわると、正確に問題を解けない。初学者は、物理の関係式を適当に代入して、全く見当違いの回答を出す。それぞれの関係式の背後には理論があって、その原則に基づいて、数式を操作するのが本来なのじゃ。」
秋山「確かに、科学では原理、原則、結果の意味や解釈を重要視しますもんね。もちろん、数学だけで発展させてきた側面もありますが、数学はさらに緻密な論理体系を持ってますからね。」

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日本は科学教育が進んでいるのか?本当は違う衝撃の事実

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「師匠、日本の科学技術の世界的評価や科学分野のノーベル賞受賞者が増えてきている、ということから、日本の科学教育は成功したと言えるのでしょうか?」
師匠「確かに、数学や理科系の教育を強化した結果であるが、日本人全体に科学リテラシーがあるかどうかに関しては、議論の余地があるかもしれん。」
秋山「どういうことですか?」
師匠「科学で成果を出せる頭のいい優秀な人は、一定量いる。それとは別に、市民の一般教養として、科学とは何か、科学的思考をもって批判できるか、というのが科学リテラシーじゃ」
秋山「このリテラシーは、いままでの学校の科学教育で習得できないものですか?」
師匠「日本では、どちらかというと、数学の教育に力を入れつつ、科学分野、物理や化学に人材を送っていた流れがある。それに加え、理系と文系と分けて、教育してきたために、初等・中等教育で科学的な見方を教えたり訓練する機会が少ない。いわゆる、科目別にエキスパートを育ててきたにすぎないのじゃ。」
秋山「なるほど。そうだとすると、たとえ科学者と言われる人でも、科学的な考え方ができているとは限らないのではないですか?」
師匠「その通りじゃ。細かいことや、数式をいじるのが好きだからやっているという人もいる。これはこれでいいんじゃが、世の中にある情報を、客観的に、事実に基づいて、適切に分析、議論ができない社会を放置するのは問題だろう。」
秋山「例えば、どのような事例が思い浮かびますか?」
師匠「例えば、数値が基準値を超えた、など、数値だけを信じて右往左往するのは、科学的思考ではない。」
秋山「数値は科学にとって大事ではないのですか?」
師匠「大事であるが、数値を得る以前の過程が分かっていなければ、意味がない。例えば、どのように測定したのか、どのように計算したのか、という部分じゃ。」
秋山「確かに、そうですね。実験値には誤差もありますし。。。」
師匠「つまり、数値の背後にある理論を議論できなければ、間違っているかもしれない数値を前に右往左往するしかない。よく聞くじゃろ、どっちを信じていいかわからい、とか。」
秋山「こういう部分は、この前、議論した偏差値教育にも問題があるのかもしれないですね。つまり、答えが合っているかどうかにしか興味がなくなる、という。。。」
師匠「うむ。それもある。点数主義の負の遺産が科学的思考を阻んでいる背景もあるようだ。」
秋山「もう少し、科学とは何かに関して教えてもらえますか?」
師匠「科学には、すべてを説明する義務はない。」
秋山「え!そうなんですか?」
師匠「証拠から論理的に推論していくこと、実験によって実証または反証しながら理論を構築すること、などが科学であって、人類のなぜに対してすべてを説明することが役割でない。」
秋山「なるほど。そこが哲学や宗教と違う部分なんでしょうね。」
師匠「あとは、予測可能である理論かどうかじゃ。説明はできても予測ができなければ、科学としては認められない。」
秋山「今日もありがとうございました。」
師匠「うむ。将来の発見や革新によって、定義などが修正されるかもしれないが、現在の基本的立場は、そういう感じじゃ。」

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専門ノート:非線形システムにおける予測可能性に関しては、もっと議論を深めなければいけませんが、統計的分析やその他の数学的ツールによって、ある種の巨視的な物理量を予測することは可能で、必ずしも時系列としてだけの予測とは限りません。

本当の教育のあり方とは?「ゆとり」それとも「スパルタ」?

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昔、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

師匠「やぁ、秋山くんじゃないか、元気でいたかな。」
秋山「はい、師匠、毎日元気でやってます。」
師匠「何か相談でもあるのかな。」
秋山「よく教育で言われるのですが、ゆとり教育がいいのか、偏差値教育がいいのか、という議論があるのですが、どっちが良いと思いますか?」
師匠「そもそも質問が間違っておる。」
秋山「え?どういうことですか?」
師匠「基本的な事を考える前に、適当に二項対立的な図式をもってきて、どちらがいいか議論するのは、本質的な答えを与えないということじゃ。つまり、問題設定そのものが間違っておる。そもそも、教育とは何か、なのじゃ。」
秋山「いかに成績を良くするか、いかに生産性を上げるか、じゃないんですか?」
師匠「それはあるが、こういうのは、ある土台を前提としてからの議論であることを理解せねばならぬ。」
秋山「といいますと?」
師匠「つまり、教育とは、一人一人が価値判断ができるようにすること、考えて、議論して、適切な決断を状況に応じてできること、自ら学んでいく方法論を習得すること、など、あげればきりがないが、端的に言えば人間形成に必要なプロセスを言うのじゃ。この土台があって、成績などが議論されるということなんじゃ。」
秋山「でも、そこまで行っちゃうと、議論が抽象的になりすぎませんか?」
師匠「抽象的というのは曖昧とは違う。まず、どこまで一般化して、そこから具体的な議論を始める、というのも方法論の一つじゃ。」
秋山「わかりました、師匠。となると、ゆとりにしても偏差値にしても、どこまで教育の本質を体現できているか、ということですね?もちろん、他のやり方も検討できると思いますが。」
師匠「その通りじゃ。で、秋山くん、君はどう思う?」
秋山「偏差値教育は、記憶や判断力重視で、与えられた問題を早く正確に解くことを目標にした感じがありました。一方、ゆとりは、自分で考える力を養い、また、学んでいく能力を付けて行くというのが目標でした。」
師匠「確かに、両者とも、それなりに理想にかなっていた。もちろん、ある程度成功した部分もあっただろうが、それぞれの問題点は何だったと思う?」
秋山「偏差値の方は、テストの点数に重きを置きすぎて、議論すること、観察すること、導いて説得すること、創造することなどが、かなりおろそかになったと思います。ゆとりは、できる子とできない子の差が開いたり、カリキュラムを削ることに躍起になって、十分な知識を習得できなかった生徒が多くなったことでしょうか。」
師匠「つまり、教育の方法として、どちらもバランスが取れていない、というか、こっちを上げれば、あっちが下がる、という結果になった、ということかな?」
秋山「そうです。結局、どの教育方針をとっても、こうなる運命なんでしょうか?」
師匠「うむ。どこの国でも起こり得るが、特に日本の場合は、上から降りてきたものをいかに上手にやるか、極めるか、というのがしきたりになっておるから、教育の原理原則から、最終的にかけ離れてしまう。つまり、一点集中してしまうということじゃ。偏差値なら、いかに点数をあげるか、ゆとりならば、いかに教えることを減らすか(笑)じゃな。」
秋山「確かにそうですね。本来ならば、どっちかではなく、どちらもうまく融合させていくことなんでしょうね。でも、そんなことできるんですか?」
師匠「できなくはない。例えば、フィンランドの教育改革は、ゆとり教育だが、それなりにPISAというテストなどで点数も取れたし、考える力も付いたとされる。あそこは、教師を育てるのに力を入れた。先生になるには教育修士を必須としているし、生徒に教えるのではなく学ばせることを徹底している。」
秋山「なるほど。」
師匠「結局は、教師の質ともいえるんじゃ。教師がその教科について良く知っておれば、生徒は自ずと勉強する。わしも経験したが、そんなに勉強しなくていい、と言っても勉強してくれた。(笑)」
秋山「確かに、教師が質問にわかりやすく答えてくれるか、とか、わかってもらいたいと思ってやっているかは、学生でも感じます。この先生に質問しても、ちゃんとした答えが返ってこないなぁと思うと、勉強しようという動機も薄れますし。。。」
師匠「教育は、偏差値が良いか、ゆとりが良いか、ではないことが分かったんじゃないかな?」
秋山「はい。そうですね。勉強になりました。今日はありがとうございました。」

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