2018年のPISA(学習到達度調査)の結果を受けて解説します

大人のための家庭教師
74views {views}

国際的な学力調査で有名なPISAというテストがあります。国や地域ごとに算出されるものですが、その結果を追って、各国が、どのようなことをコメントしているのか、また、どのように解釈すべきかを議論していきたいと思います。

PISAの試験は、15歳児の読解力、数学、科学と、それぞれのリテラシー、つまり、解釈する能力を測定するものです。基本的に経済協力機構(OECD)の国で実施されていますが、それ以外の都市(上海など)でも行われています。

テストに携わっているのは、オーストラリア教育研究所を中心に、日本の組織などもかかわっています。

そのため、教育ニュースにおいては、イギリス、オーストラリア、日本では、テストの結果を見て、「どの国が躍進しているか、なぜ、我が国は、なかなか点数が上がらないか」などの議論が活発でした。

一方で、アメリカは、PISAに関しては、参考にしますが、点数だけで学力を判断することに懐疑的な態度は、一貫しています。

それでは、私がどう見るかですが、今までのデータや、自身の教育経験から、多少、独断的にはなりますが、解説していきたいと思います。

PISAの点数が高いというのは、その国や地域における、教育インフラが整っていて、生徒、教師、親、社会なども含めて、教育政策に、ほぼ一致した意見が共有できている、ということだと思います。

実際、アジアの国々のように、幼少期から、学習やテストの訓練が一般的であったり、人口が少なく、教師の質もある一定程度、長期にわたって保たれているところが上位に行きやすいと、見ることもできます。

実際、そのような環境の下では、生徒、個々人の家庭収入の格差は、学力の格差に反映していないという結果が出ているようでした。

そういう面から言えば、日本のように、1億人規模の人口を抱えたうえで、これだけ上位に位置することができるのは、欧米から見ると、めずらしいとのことですが、一方で、アジア的な教育環境から言えば、まぁ、当然なのかもしれません。

一方で、アメリカのように、自由な教育を主張する国からすると、テストの点数だけで判断するのは、文化的に合わないようですが、最近では、アジア流に見習って教育改革も行われていますし、PISAの点数も少しずつではありますが上がっているようです。

しかしながら、一方で、面白い論文があったので紹介します。タイトルは、Side Effects of Large-Scale Assessments in Educationで、カンザス大学とアラバマ大学の共同研究です。

題名の通り、PISAも含めて、いわゆる大規模な標準テストで良い点数を取るような教育には、副作用がある、と主張しています。

統計的にわかったのが、テストの点数上昇と裏腹に、生徒の実生活における充実さが低く出る傾向にあったようです。ある意味、肌感覚で理解できます。テストで成功するには、しつけや訓練が必要です。いわゆる、スパルタ的な教育ですが、自分の好きなことやリラックスする生活を犠牲にしなければいけません。

確かに、基礎学力がある方が、人生において成功しやすいですし、社会全体にとっても利益になるのですが、アメリカ流の、自由や創造性、人生や人に対する寛容性から来る、社会全体のダイナミズムは、単にテストの点数を稼ぐお利巧な生徒だけでは、実現が難しいかもしれません。

また、一つや二つの方法ですべてがうまくいくこともないですし、成功の裏には、失敗や、あらゆる問題も山積みになっているのは、世の常です。このような中で、生きる術を習得するような教育が理想なのかもしれません。

大人のための家庭教師

「大学受験改革」はうまくいかない、そもそも試験で全て決めるのが問題!

大人のための家庭教師
60views {views}

教育改革や受験改革などよく聞きますが、結局、問題を作るだけで、それほど変わっていないと感じるのは、私だけでしょうか。

物事の仕組みを変えても、中身が変わらない、というのはよくあることです。今回は、アメリカのシステムから、日本の教育や受験の中身を議論してみます。

私の持論でいえば、日本の場合は、社会全体が大学受験に力を入れすぎています。大学に入ることにだけに集中している感じです。

昔から「これじゃいかんだろ」という声は、財界から、また教育界からもちょくちょくありました。「より考えられるような」とか「より、論理的能力を」など、現行の記憶主義的なカリキュラムでは、産業が立ち行かないということで、教育改革を求めていました。

しかしながら、「ゆとり教育」の失敗から、元のさやに戻ったり。最近では、英語教育を早めたり、プログラミング教育を義務化したりなど、いろいろ変化はさせています。

もちろん、これらに対する批判もありますが、今回は、もっと奥深い部分といいますか、根本がわからなければ、良い方向に変わらないのと、さらに余計な仕事が多くなるということを指摘します。

そもそも、テストの結果だけで、理解しているかどうかの判断は、まちまちです。もちろん、一つの基準にはなりますが、日本のように、1次試験で選抜し、とにかく難しいだけの2次試験で合格者を絞る、という形だけで、学生を選ぶのはレベル・質とともに高い大学教育へ、導きづらくなります。

一方で、アメリカでは、いくつもの側面から、「この学生が、うちの大学で良く学んでくれるかどうか」という形で合否を決めます。

そのため、基本学力を、テスト業者が提供している試験結果から、勤勉さを高校などの成績表から、人間的信頼や態度を推薦書から、また、社会や公共に関する関心度を、ボランティアやインターンシップなどで評価します。

ここで勘違いしてほしくないのが、上の基準で全てが決まるわけではありません。これは、あくまで合否です。実際は、大学に入ってきちんと勉強し、さらにそれなりの成績を取らなければ、退学させられるのです。

そもそも、教育は、連続的に経験し、教えられて、また、周りに教えたり、自己実現したりして、自分の中で育てていくものです。それを、1回の試験だけで全てを決めようとするところに間違いがあるのです。

ですから、大学受験の問題を変えただけで、すべてうまくいくという安易な考えでは、教育の質を上げることはできないと認識することが重要になります。

変えることは悪くはありませんが、変化を成功に変えていくには、連続的な試行錯誤と不断の努力にあります。また、1つや2つの仕組みを変えるだけでなく、時間的に続いていくことを想像しながら設計しないといけません。

また、社会全体にある程度、選択の自由など、個人にあった教育方法を選べることの許容も大事になると思います。(もちろん、何事も行き過ぎや放置するのは、さらなる問題を生みます)

もちろん、アメリカの教育システムのすべてがうまくいってはいませんが、日本のような学生のことを考えていない自己満足的な政策の設定や、それに伴う強制は、残念ながら、何もよい方向に変えることはできないと思います。

大人のための家庭教師

 

良いテスト、悪いテスト、普通のテスト

大人のための家庭教師
701views {views}

人々は、どこか、「テストで高得点を取れば、優秀である」と思っていますが、それは、テストの質、つまり、問題の内容や構成にかかっています。

現在まで、いろいろなテスト問題を解いたり、教えたり、また、作ったりしてきているので、今日は、少しテストの内容を吟味してみます。

まず、良いテストですが、受験者の答え方など、多くのデータで研究、修正してきているテストがそれにあたります。アメリカの民間ではありますが、有名なテストは質が高いです。例えば、TOEFLやGRE、SAT、MCATなど、結構ありますが、きちんと理解していないと、点数が上がりません。

理解していないで答えると、間違った選択肢を選ぶようにしてありますし、点数の換算は、偏差値制なので、他の受験者に比べて根本的に実力を上げないと、点数に反映しません。何度も受けていれば、パターンがわかって少しずつ点数が上がるようにはできていないのです。

また、彼らはテスト製作のプロなので、受験生のこたえるパターンが変わると、テストの出し方などもそれに対抗して変えていきます。これは、学校側として本当に理解している学生を受け入れたいので、テスト業者は、そのプレッシャーの下で作っています。いずれにせよ、テスト内容は、常に改善されています。

次に、悪いテストの基準です。まだ日の浅い資格試験や、テストづくりのプロでない教授などが作った大学の2次試験や編入試験などに多いのですが、学生がどれだけ理解しているかを測る指標ではなくて、点数をどれだけとることができるかに照準を合わせています。

そうなると、きわめてマニアックな難しい問題が出題されたり、合格後に必要な知識や考え方を問うものではなく、問題を作る側に都合の良いようなテストになります。

私は、プロとして問題の解き方は教えられますし、まぁ、難問を解くこと自体、楽しいのですが、受験者の立場に立つと、将来に必ずしも必要な内容でないので、こういうテスト問題は、教えていて心苦しくなります。

最後に、普通の試験ですが、一般の定期試験、ある種の資格試験や標準試験に多く見られがちの、簡単すぎる問題をだしたり、問題を読まずに、選択肢だけで正解できるような問題も含めて、いろいろな難易度の問題を適当に含んだ、よくあるテストです。

これは、それなりに実力は評価できるものの、本当に理解して答えているか、わからないのが欠点です。クラスの成績や、1次試験的なものであれば、よく見られるような試験です。

そもそも、テストだけで実力を見たり、本人の能力を、はぐくんだりはできませんが、試験の質をチェックすると、試験結果の評価も変わってくるのではないでしょうか。

大人のための家庭教師

日本は「教育に対する公的支出が43か国中40位」以上に考えなければいけないこと

大人のための家庭教師
69views {views}

日本が教育大国であったのは、もう過去の話のようです。多くの点で、他の国よりもレベルが低くなっているのは確かだと思います。

これは、単に、教育政策の問題だけではなく、財政的にも問題があるようなのですが、私の考察では、もっと根深いものなのかもしれません。

そもそも、これは、何度も言っていることなのですが、日本の教育のやり方が数十年前とほとんど変わっていないことにあります。いろいろ導入しているのはわかるのですが、その作法といいますか、「とりあえず、やっておけばいい」という感覚がずっとかわっていないんですよね。

以前も、偏差値教育のほうが良くて、ゆとり教育で学力が落ちたと、という人たちもいましたが、それは表面的で、実は、余計なことはしたくないというか、上から言われたことだけやればよい、という感覚で仕事をしている部分が続いているからでしょう。

このような状況で、現在、受験の仕方ばかり議論されていますが、根本的に教育をどう考えるかという議論がほとんどありません。

また、教育制度を変えても、社会制度が変わらないと、元の木阿弥になることも考えるべきです。

それでは、どうしたらよいでしょうか?この問題は、一朝一夕に解決するものではないことを前提に、教育に絞って、いろいろとお話しします。

まず、ある程度、教育制度を自由化してもよいのではと思います。アメリカは、高校まで公立学校に行けば、学費は無料です。しかし、公立学校は比較的教師の質が悪いこともあるので、私立に行くこともできますし、学校に行かずに、家で、親や家庭教師が教えることも権利として認めています。

家で学ぶことをホームスクールといいます。批判として、他の友人との交流がないので、社会に出たら、人間関係でうまくいかないのでは、というのもありますが、統計的には、そうでもないようです。

また、アメリカを含めヨーロッパもそうですが、社会人になっても、職を変える時も気軽に学校に戻ってくることができます。日本だと、最近では社会人も多く学んでいますが、年齢によって画一的に扱う風土が強かったり、大学に行くこと自体ハードルが高いと思います。

また、日本では、教師に関するルールや法律が厳しい一方で、罰が軽い傾向にありますが、少し、ルールなども緩和して、逆に法を犯せば罰に徹するように変えると、人材の流動性やレベルの高い人材を多方面から募ることもできると思います。

また、資格や試験で選ぶ教師よりも、実力があるかどうか、さらに人間的に尊敬できるかどうかなども重要になってくるでしょう。もちろん、失敗もありますが、失敗から学んで善処できれば、長い目で見て成功できると思います。

結局、教育で重要なのは、教える教師の能力、経験、それとリーダーシップなので、現在のルール、法律、試験だけで教育を統制するやり方から、少しずつでもいいのでシフトしていくべきでしょう。

まだまだ、言いたいことはありますが、今日はこの辺で。

大人のための家庭教師

日本人の持つ「教育神話」について議論する

大人のための家庭教師
69views {views}

教育に従事して、10~20年以上たちましたが、日本の教育の本質、つまり、根本的な中身がほとんど変わっていないようなので、今回は、日本人の信じている、教育都市伝説なる物に関して議論していきたいと思います。

日本的な教育思想は、実は、アジア全体で共通している部分があるのですが、どちらかというと精神修養的な要素が強く感じられます。もちろん、そのような教育自体、悪いことばかりではないのですが、「これだけが正しい」となると、事実認識が異なることもあります。

例えば「若いうちに叩き込め!若ければ若いほど乾いたスポンジのように吸収する」に関してですが、いつも正しいとは限りません。若い子に勉強や、やりたくないことを無理に押し付けて失敗した親や先生は山ほどいます。もちろん、本人が自主的に興味を持てば、その通りですが、年齢に比例するとは限りません。

実は、大人になってから勉強される方も良く教えていますが、若い子より、よく質問しますし、本人の知識などと結びつけて、理解なども早かったりします。一般に大人のほうが、逆に知識がある分、興味も出やすい傾向にありますが、若い学生なんかは、早く宿題や勉強を終わらして、自分の趣味やアルバイトの時間を作りたいという人も少なからずいます。

したがって、子供の方が良く学ぶけれど、大人になったら勉強できない、吸収が遅い、というのは、ウソで、人によりますし、興味を持ったら、逆に大人のほうが、理解が深まります。

次に「テストで良い点数、高い偏差値を取れば、あなたは、その教科をしっかり理解している」に関しては、これも、そうとは限りません。日本ではいろいろな試験があって、それに合格すると「拝まれる対象」になりますが、テストの点数は、コツさえ覚えれば、取ることができます。

もちろん、ある程度は知っていないといけませんが、理解しなくても、点数を取ることはできます。以前、何人かの学生に、クラスに関する理解と成績に関して、非公式ですが、インタビューした結果では、成績が良いからと言って、きちんと授業内容を理解しているとは限りませんでした。

点数だけで判断してはいけない理由は、例えば、92点取った学生と、84点の学生と比べて、どちらがより理解しているかは、点数の高さでは測りきれません。また、84点の方が、より頑張ったり、本人の態度で、理解力や応用力を、後々、身につけられたりするので、ピンポイントの数字には、意味が無いことも多いのです。

それゆえに、私は、受験主義には反対しています。試験は、教育者が教育の仕方を柔軟に行ったり、修正したりするための指標であって、点数で学生の優劣を判断する材料に使われるものではないのです。

最後になりますが「良い大学に入れば、人生安泰だ」にも言及します。お分かりのように、必ずしもそうではないです。もちろん、人によりますが、大学に入るだけで、入ってから勉強しなければ、意味がありません。

実は、高校までに習う知識というのは、大学以降で習う内容からすれば、かなり限られているのです。ですから、大学に入ってから学ぶ知識を習得しなければ、人生にとって意味がありません。

アメリカなどでは、若いころに学んだ知識が通用しなくなったり、新しい仕事をするために、大学に再入学します。こう聞くと、当たり前なんですが、日本では、「偏差値の高い大学にうかれば、人生の印籠をもらったようなもの」という信仰があります。わかっていない人たちをだますのは簡単ですが、わかっている人たちからは、そのように振る舞うと、中身のない人だと思われるでしょう。

大人のための家庭教師

2019年ノーベル化学賞の中身について、説明します

大人のための家庭教師
107views {views}

受賞というのは、評価を受けたということです。「誰が」、というのは多くのニュースで話されているので、ここでは、「誰が何を」に絞って、科学的興味に基づいて説明しましょう。

完成に至るまでの内容は、基本的に、アメリカのジャーナル、Physics Todayの記事を参照しています。

まず最初に、電池のメカニズムは酸化還元反応にあります。放電過程では、陽極での酸化反応によりイオンが解放され、液体電解質溶液を通って陰極に移動し、還元反応を受けます。

一方、電子は接続された回路を通過します。再充電では、酸化還元プロセスが逆になり、イオンは陽極に戻り、別の放電サイクルの準備が整います。これは、電池のオリジナルのアイデアで、学校で習いましたよね。

スマートフォンや電気自動車などに電力を供給するリチウムイオン電池は、1973年の石油危機の少し前に始まりました。アメリカエネルギー委員会は、当時MITのリンカーン研究所にいたグッドイナフ氏に、フォード社のバッテリー開発者によるプロジェクトの評価を依頼します。

そこで、ナトリウムと硫黄を使用した溶融塩電池の実現可能性を吟味し、約1世紀前に開発された標準ではあるが時代遅れの鉛蓄電池を置き換えることに成功しました。しかし、1960年代後半までに、高い動作温度と腐食の問題により、これらのバッテリーに実用面で問題が生じてきました。

当時エクソンの研究科学者だったウィッティンガム氏は、電気自動車に電力を供給するだけでなく、オフピーク時に太陽エネルギーを蓄えることができる低温高エネルギーのバッテリーを検討しました。そのため、1976年に二硫化チタンの陰極とリチウム金属の陽極を組み合わせたバッテリーを開発しました。

リチウムの標準還元電位は-3.05 Vと低いため、高密度で高電圧のバッテリーセルにとって特に魅力的でした。ウィッティンガム氏の設計では、TiS2(二硫化チタン)構造の層間に挿入し、酸化還元反応中にリチウムを可逆的に保存する手段を提供したのです。

ただし、リチウムは高い反応性を持っており、危険な反応を避けるために空気や水から隔離する必要があります。ウィッティンガム氏は、数年前に実施されたリチウム電気化学実験で他の研究者によって慎重に設計およびテストされた非水電解液を使用することにより、この問題を解決しました。

これは大幅な改善でした。ウィッティンガム氏のリチウムイオン電池は、鉛電池よりも高いセル電位を持ち、2 Vと比較して2.5 Vでした。しかし、ウィッティンガム氏のリチウムイオン電池は安定していませんでした。放電と再充電を繰り返した後、リチウムの細かい糸のような結晶が陽極上に成長します。最終的に、それは陽極と陰極を隔てる障壁を破るのに十分大きくなり、電池は短絡したり爆発したりします。

1980年に入り、グッドイナフ氏は、その問題を直接解決はしませんでしたが、陰極用のはるかに優れた材料を思い付きました。オックスフォード大学の水島浩一氏と、彼の同僚とともに、コバルト酸化物リチウムが陰極に使用できることを発見したのです。

TiS2と同様に、酸化コバルト構造にはリチウムがしっかりと挿入されているため、陰極に十分なエネルギー密度を提供できます。酸化コバルトの構造と電位の関係に関するグッドイナフ氏の洞察により、電池の性能が向上しました。

電圧は2.5 Vから4 Vに増加し、新しい電池はウィッティンガム氏の設計よりも改善されましたが、システムは依然として陽極として反応性の高いリチウム金属を使用していたため、企業は電池を商業規模で安全に製造できませんでした。

1985年に旭化成株式会社で働いていた吉野氏が陽極の材料をグラファイト(黒鉛)に置き換えました。これは電気化学的条件で安定しており、グラファイトの結晶構造に多くのリチウムイオンを収容する構造になっています。

ケンブリッジ大学の化学者であるクレアグレイ氏は、グッドイナフ氏のリチウムコバルト酸化物の陰極と吉野氏のグラファイトの陽極を使用して、「もう、爆発などから身を守る大掛かりな実験施設なしで、電池が組み立てられるようになった」とコメントしています。

さらに重要なことは、グラファイトの陽極は軽量であることと、電池の性能が低下する前に数百回充電できることです。その後すぐに、ソニーは旭化成と提携し、家電製品のすべてのニッケルカドミウム電池をリチウムイオン電池に交換しました。

これが、リチウムイオン電池の実用まで至る経過です。もちろん、細かい技術や科学的な試行錯誤もたくさんあったと思いますが、このようなメカニズム自体が、電池のみならず、他にも応用できると面白いですね。

大人のための家庭教師

本当の教育は、クイズ王を育てるのではありません!

大人のための家庭教師
66views {views}

クイズといえば、誰が勝つか、どのチームが優勝するかを演出して、見ている人たちも興奮する番組を思い出すと思います。昔、日本であった「クイズ100人に聞きました」は、知識に関する問題ではないですが、チームに分かれて勝負をする形式です。このクイズ番組、元々、アメリカの番組をまねしたもので、アメリカでは、今でもテレビでやっています。

他にも、「アメリカ横断ウルトラクイズ」というのもありました。これは、個人戦で知識を競い合うタイプのクイズです。

最近では、いわゆる、日本の小中高で出題されるような知識を問題にするクイズ番組が多く、クイズと受験、大学名などを紐づけた感じで、視聴者を引き付けているようにも見えます。

まぁ、ショーとして、見る分には、楽しいですし、問題はないのですが、実際の教育とクイズ王になることとは、違うのでは、というお話をしたいと思います。

そもそも教育とは、必要な「道具」の使い方を教えながら、どのように未来を切り開いていくか、また、切り開くにあたって、過去の偉人たちがどのように対処したのか、その判断は、今でも有効か、など、個人の人生と、コミュニティ、国家、世界とのかかわり方を育んでいくものです。

小学校では、「道具」、すなわち、言語や数字の使い方を主に学び、それをもとに、基本的な知識を習得します。中学校では、より、高度で複雑な知識と、それをもとに身の回りを超える知識に触れていきます。

そして「最後」に高校では、大学入学のために「クイズ王」になる訓練を受けます。ある意味、中学レベルでも、受験のためのクイズ王養成といってもいいかもしれません。

これは、知識を切り取って、それが答えとなるような問題を作り、それが出題されると、素早く、しかも、正確に、期待された答えを答えるという動作を繰り返すものです。

ほとんどの人は、「これの何が問題なんですか?」と聞きたくなると思います。もちろん、訓練そのものは、悪いことではないですが、それだけに集中すると、結局、社会にとって意味のない人材を育ててしまうことにもなります。

まず最初に、クイズ王になるには、何をしているのでしょうか。当然、問題の研究をします。次に、いかに素早く、解答するかを訓練します。また、いかに多くの点を取るための戦術なども学んでいきます。

これをやっていれば、確かに、クイズ王(受験の勝者)になれるでしょう。しかし、このような知識が、現実に使えるのでしょうか?

「こうきたら、こう答える」だけの訓練を受けている人は、前例がなければ、立ち往生します。そして、問題のたらいまわしか、先送りをしてしまうでしょう。

断片的な知識を習得してきた人は、その知識の適用範囲を間違えてしまうこともあります。例えば、憲法の条文を個人に適用するような間違いも、そういうところから来ています。また、その知識をもとに議論もできない人も多くなります。

あとは、点数主義に陥りやすいので、点数にならなければやらなかったり、点数を取るために、「ズル」をしたり、点数さえ取れれば、それ以上やらなかったりします。

また、上から与えられっぱなし、つまり、問題を出題されてから実力を発揮するだけの人たちなので、自分から問題を発見できない、すなわち、問題意識が低くなる傾向にあります。

世の中を見ていると、立派な肩書を持つ、政治家、官僚、また、その他の業界人が上のような人材になっているように見えるのですが、単なる錯覚なのでしょうか?

大人のための家庭教師

教育というのは、微分積分のやり方だけを教えることではありません

大人のための家庭教師
81views {views}

いろいろとやることがある中で、勉強するというのは、時間的にも大変ですし、理解するのにストレスもたまります。ですから、なるべく簡単に、短時間で、すぐ使えることだけを学びたい、というのが大方の望みではないでしょうか。

それでは、いわゆる「やり方」だけを教えることが、教育として意義があるのか、論じてみたいと思います。

ある会社のCEOによると、社会に出て活躍できる人は、大学などで学ぶ一般教養を身につけることがキーとなっているようです。例えば、コミュニケーション、分析力、も含めて、数学、技術、科学の素養も、キャリア一般に役に立っているとのこと。

確かに、自分が小中高と学んだ、美術、技術、家庭科、書道が、人に何か伝えたり、物を作って完成させる感覚に役に立っているように思えます。具体的に言うと、美術で学んだ、奥行きの表し方や絵での表現が、教育に役に立ったり、研究結果を表すのに役に立っていました。

スティーブ・ジョブズも、カリグラフィーという、字を美しく見せるための手法を教えるクラスに魅了され、それが、その後のアップルでの仕事に役立ったと言われています。

ある国(ある地域)では、数学、英語、工学など、仕事を得るのに必要な科目しか教えない所もあるようです。一概に言えませんが、そういう学習法では、上から言われたことをやるだけならともかく、仕事や人生に幅が出ないような気がします。

また、2018年のギャロップの調査によると、簡単にパスできる講義より、ちょっと努力しないと取れないような、チャレンジングなクラスを取った人たちの方が、そうでない人たちより、約3.6倍も、社会に出ていくにあたって、良く準備ができていると感じるらしいです。

最後に結論的に申しますが、受験だけを目的とした、授業は、本当の教育なのかどうか、でしょう。上の議論から言えば、キャリア的には最短距離になるかもしれませんが、長期的には、幅のない人材を作るような教育になりかねません。

また、受験で苦労した分、大学ではチャレンジングな学習をしていないとなれば、社会に出る前に十分鍛えられていない人が多く輩出されるでしょう。

一部の優秀な人たちは、どんな境遇にあっても、何とかやって行けますが、教育の役割は、そうでない一般の人たちに実力をつけるというものです。果たして、現在の教育機関は、本物の人材を作るような効果的な仕事をしているのでしょうか。

大人のための家庭教師

「レリゴー」(Let it go)にみる、日本人が認識できる発音の現実

大人のための家庭教師
219views {views}

しばらくぶりの英語の話題ですが、いきなり頭の中で、「レリゴー」という言葉が思い浮かんでしまったので、いろいろ考えてみました。日本人にとっての英語の発音なのですが、少し詳しく論じてみましょう。

日本語というのは特殊で、かな文字のほとんどすべてが子音のあとに必ず母音が来る構成になっています。また、日本人はその文字の情報から発声したり、音を認識しているのです。

一方で、他の言語は、子音だけの発音があったり、母音にしても日本語より多くあるのが普通です。つまり、日本人より多くの音が聞こえますし、より多くの発音を作ることができます。

例えば、有名な話で、犬の鳴き声を「ワンワン」というのは、日本語の文字に当てはめて表現すると、「ワンワン」のように聞こえる、もしくは、そのように表現すると日本語的にしっくりくる、というものです。

英語が母国語の人であれば、「ワンワン」とは聞こえずに「Bowwowと聞こえますが、

ですので、「レリゴー」は、Let it go が日本人には、そう聞こえる感じです。もちろん、「レリゴー」というようにまともに発生したら、アメリカ人は首をかしげることでしょう。

他の例では、What time is it now? が「掘ったイモいじるな」といった方が通じる、みたいな都市伝説がありましたが、実際は、そのまま言えば通じない確率の項が高いと思います。これは、日本人がWhat time is it now?の発声を聞くと、その日本語の音に焼き直した時に「掘ったイモいじるな」になってしまうだけなのです。

もう少し詳しく言うと、日本人に英語の子音(無声音)が聞き取れないから、英語を正しく聞き取れず、仮名になる部分だけ認識するというメカニズムになります。

ここがわからないでいると、英吾が聞き取れないと悩んでしまって、リスニングが苦手になってしまうのです。

「レリゴー」に戻ると、英語的には、レットのトの部分が無声音になります。つまり、日本人には聞こえません。次に来るイットのイ(日本語のイと違って無声音に近い)と、前のレが合わさって、リに聞こえるのです。

リスニングに苦労している人は、アメリカ人が操っている、日本人には聞きづらい子音に神経を配ると良いかもしれませんね。

大人のための家庭教師

日本人のノーベル物理学賞は、喜ばれるのに、物理学の授業が嫌われる理由

大人のための家庭教師
150views {views}

物理学と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?恐らくノーベル賞が一番有名でしょう。ニュートンやアインシュタインなどの名前を思い浮かべる人も多いかもしれません。または、太陽系、銀河など宇宙の成り立ちと物理学を結び付ける人も多いと思います。

そもそも、物理学とは何でしょうか。自然界で繰り広げられている、物同士の運動をどのように記述するか、から始まった学問です。その事実の積み上げにより、理論的な枠組みが作られ、そこから、いろいろな工学的応用もされています。

小さなものでは、コンピュータに使われている半導体の振る舞い方から、大きなものでは、宇宙の成り立ちや、星の運動も物理学に当たります。

ある意味、構造や力学的な見方において、極めて基礎的な科学の分野でもあります。ですから、物理学の見方を利用して、化学結合や化学反応を分析したり、生物的な現象などの解析などにも使われています。

一方で、応用数学の側面もあって、数学と科学の緊密な関係を科学の側で貢献しているのも物理学と言っても過言ではないでしょう。

したがって、アメリカの大学では、自然科学を専攻する学生すべてが物理学を必須科目として取らなければいけません。科学的考え方を習得する目的でもあります。

ところで、日本ではどうでしょうか。教育のカリキュラムを見る限り、物理の重要性をわかっている人たちが少ないような気がします。

以前、ネットで高校の教師が、「物理学を取る学生が減ってきている」などとコメントしていました。結局、教える方も教わる方も、難しい科目なので、避ける傾向にあるのでしょう。

難易度の一方で、日本の教育全体が、「受験」中心であって、いかに点数を取って合格するかが目的になってしまっているというのも見て取れます。何のために学ぶのかの目的がおかしな方向に行っています。

しかし、身の回りを見れば、物理学と関係のないものを探す方が難しいのです。当然、コンピュータや多くの電化製品は、物理学の応用です。外に出れば、風、音、空、虹なども物理学の理論で一貫してそれらの現象の説明が可能です。

カーナビに使われているGPSも、アインシュタインの相対性理論なしでは実現しませんでした。医療施設にある、レントゲン、MRI、PET、ファイバースコープなども物理学の応用です。

残念ながら、学校では、物理学という学問とその歴史に貢献してきた人間のドラマと、彼、彼女らが実現してきたこと、その背後にある哲学など全部取り除いてしまっています。

教育が正しく行われなければ、多くの人たちをダメにしてしまいます。信念や自主性など無くして、目先のことだけ考えることを薦めるような教育であっていいのでしょうか?

ついつい、考えてしまう今日この頃です。

大人のための家庭教師