教育が良ければ世の中変えられる!

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世の中、教育改革と言われて久しいのですが、なんか、変わったような感じがしない、というのが本音ではないでしょうか。

もちろん、今までいろいろな修正や変更が行われ、良くなっている部分もあります。しかしながら、効果を得るまで時間がかかるため、常にその評価が難しくなるのも事実です。

ここで、教育に関するいくつかの誤解についてお話ししましょう。まず、「子供の時から一生懸命教え込めば、どんどん吸収する」というものですが、必ずしもそうではありません。

また、「大人になってから学ぶのは大変だし、無駄」というのも、正しくはありません。つまり、子供だろうが、大人だろうが、やる気がなければ、効果的に学べないのです。もちろん、才能などがあるので、学べる早さなどは個人差がありますが、年齢に関しては、それほど関係ありません。

実は、若い人は経験がないがために、何を学んでいるかわからなかったり、質問する素養もなかったりしますが、逆に大人が大学に戻って学ぶのを見ると、学ぶ大切さを知っていたり、もっと知りたいという感覚も若い人よりも強かったり、質問も多様な経験から鋭いことを聞く人が多いです。

学生だけでなく、教師も重要な要素になります。彼らのクラスマネージメントや教科の知識も、学習には重要な要因になっています。

つまり、学生のやる気と、教師の能力が学習効果を最大限にできるのです。「当り前じゃないか」という人もいると思いますが、意外とわかっていない人が多いと思います。

実際、現実はどうかと言いますと、学びの質より、とにかく、テストで点数が稼げれば良い、とか、資格さえ取れれば、内容なんてマスターしなくても良い、とか、高校(大学)さえ入学できればいいんだ、など考えている人たちの方が多いのではないでしょうか?

一見、一生懸命、勉強しているようで、その考え方が結構、自分勝手になっていますよね?合格さえすればよい、という考え方は、自分さえ良ければそれでよい、となります。

「こりゃ、けしからん」とお思いでしょう。でも、こういう態度を世間的に許しているんですよね。実際、社会を見ると、人の見ていない所で自分の利益だけを考えて公の利益なんてどうでもいい、という人たち、多くないでしょうか?

もしかしたら、日本では、このような考え方を、現行の教育から学んでいる人たちが少なくないということですね。

「教育改革による○○教育に期待!」という、上からあたえられたものよりも、そろそろ、教育に対する根本的な態度に関して考えていくのが大事ではないでしょうか。

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日本人が教育も政治も改革できない理由。。。

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瀧本哲史氏の本、「戦略がすべて」に次のように書いてありました。「ほとんどの日本のビジネスマンは『高級作業員』にすぎない。いくら大企業に勤めていようとも、テンプレート化された仕事をより早く、より効率よく行うルーチンワーカーなのだ。」

この文言、実は、教師に関しても当てはまるんです。ほとんどの教師や教授も高級作業員でしかなく、テンプレート化された授業を、より効率よく行うルーチンワーカーともいえると思います。

実は、この事実、日本を作っているほとんどの「部分」に当てはまるところがあって、それが、政治家も含めて、いろいろなところで言えるのです。(もちろん、一部の素晴らしい組織はありますが)

例えば、組織内に問題があって、第3者委員会を設立して原因を追究する、など、ほとんどうまく行えないですよね。

また、よく外国から来て日本に住んでいる人が言われているのが「店員がマニュアル通りにしかやらないので全然融通が利かない」とかいうのも、似たような現象です。

なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか。私が見る限り、戦後、日本が行ってきた「ヘタレ教育」が原因だと思っています。ヘタレ教育というのは、まさに効率を重視して「お上」が絶対権力を行使して、教育を実質、統制するやり方です。

「そんなことはしていないし、法律上そんな民主主義に反することができるはずない!」と反論される方もおられるでしょうが、事実、教育委員会やそれに準じた組織が、ほとんどを仕切っていて、偏差値・順位などで生徒らを裁き、教育に対する選択肢が少ない状況では、そう言われても仕方のない状態が続いてきました。

したがって、上の例のように、マニュアルに従って、マニュアル通りにやるだけというのが、ほとんどの日本人の仕事の仕方になっていることからも、よくわかると思います。

このような教育を受けてきた人たちが教育や政治を変えるのは、そもそも無理だということがおわかりでしょう。

解決策はいくつかありますが、現在の教育を変えるのは、ほぼ無理と考えたうえで、「ヘタレていない教育」ができる人や組織で学べる選択肢を増やしていくことと、その組織への社会的評価を透明化することが一つです。

そこから輩出される教育者が広がって、効果が出ると、周りは真似せざるを得ないでしょう。もちろん、言うほど簡単ではないでしょうが、わかっている人がリーダーシップをとれるような環境、それが一番大事、なのです。

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科学についてみんなにもう少し知ってほしいこと。。。

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この間、テレビで火山の中を透視する技術を使って火山研究している、という話題を報道していました。この技術は、ピラミッドの中を見るためにも使われたもので、宇宙線の一つであるミューオン(μ粒子ともいう)を利用したものです。

ミューオンは電子などと同じく素粒子と呼ばれるものの一つで、当然、肉眼では見えません。宇宙線は宇宙から無数に降り注ぐもので、基本的に人体や生物に害があるものは地表には届いていません。

その番組で、コメンテーターが「そのような見えないものを利用するなんて、すごいですね」と言っていました。確かに、そういう応用は素晴らしいと思いますが、少々、聞き捨てできなかったので、詳しくお話しします。

そもそも、宇宙線は、20世紀初頭、今から約100年前に発見されたものです。そこから、科学としていろいろな形で研究されてきました。

その後、物理学で量子力学や素粒子論の理論的発展も相まって、宇宙線の種類も特定されてきました。ミューオンは1936年に宇宙線から発見され、一時は、湯川秀樹が提唱した中間子だと思われた粒子です。(後に、中間子は1947年に発見されたパイオンという粒子だとわかりましたが)

つまり、ミューオンなどの粒子は、科学の世界で長い間、多くの人によって研究されてきたものなのです。100年の時を経て、今、火山やピラミッドの研究に応用されてきた、ということです。

ここで言いたいのは、応用された事実だけ称えて、それ以前の人類の努力がなかったように伝えられるのは、科学者としてはつらいものがあります。

このミューオンも含めた物理科学の研究には、いくつものノーベル賞を獲得しています。しかしながら、科学史として「どのように人類にまたその社会に貢献してきたか」という教育がされてきていない事実は、非常に残念に思います。

(日本人はノーベル賞に関して、日本人が受賞すればお祭りになりますが、その中身には、ほとんど言及しないのも残念ですが)

「エジソンは偉い人」であることに異論はありません。数々の発明などにより大きな貢献を人類の生活にしてきました。

しかしながら、エジソンの電気機器に関する発明は、その前にファラデー、エールステッド、クーロン、アンペール、マックスウェル等の電磁気に関する研究結果もあったから成り立ったという事実も知ってほしいな、と思いました。

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テスト主義が招く教育の破壊行為、とは。。。

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私の経験から、テストで点数を取ることに重きを置くと、本当の教育を行うことが難しいという話を示してみたいと思います。

まず、最初に断っておきますが、テストを受けさせること自体が悪いということではありません。テストはあくまで手段だと位置づけていれば、それを使って学生の理解を深めることができるのは確かです。

また、長期間にわたって一貫した教育ができれば、テストを利用しないで学力を上げることもできます。いずれにせよ、教育者の力量やクラスマネジメントでどうにでもなる部分でもあります。(将来的にはAIなどでパラメータを視覚化できるとも思いますが)

基本的に言えるのは、理解を中心に置かず、テストの点数だけで評価することを推進すれば、大きな問題を引き起こします。

まず、アメリカのある州の例を見てみましょう。アメリカでは何年か前から政府の方針で、いわゆる学校の共通テストを受けさせ、学力の進歩を見るようになりました。

しかし、残念ながら、アメリカでは、それにともなって教師の訓練を正しく行わなかったため、教師が生徒により多くの点数を取るように勉強を強制し、多くのプレッシャーをかけた、というのが実態でした。

その結果、どうなったでしょうか?生徒らは合法・非合法を含めてカンニングするようになりました。ところで合法カンニングとは何でしょうか?これは、いわゆる「ごまかし解法」で、周りの生徒との情報交換で、「このように書けば、点数をとれる確率が上がる」とか「これを選択すると正解する確率が高い」という指針の下に回答する方法です。

また非合法カンニングの常とう手段は、成績の良い生徒のとなりや後ろに座って、解答を写すやり方です。

私の経験ですが、ある学生が私のところに相談に来て、「全然理解していないのに、前期のクラスでA(優)を取った」と苦しそうな表情で吐露していたのは印象的でした。彼は、理解したかったそうです。

日本でも似たような状況がありますが、最近、受け持った方の例で言うと、確かに、前もって出る問題の復習をすれば、問題は解けます。つまり、理解していなくても公式など覚えていれば、何とか問題は解けるのです。

もちろん、このような勉強法では、こちらが少しでも問題の文言や形式を変えれば、全く解けなくなるのは明白です。

また、一般に日本での傾向で言えるのは、とにかく問題を作る側が難しさだけ(複雑で難解という意味で)を追求してしまうことです。

ある大学の医学部の物理学編入試験を拝見したのですが、いわゆる重箱の隅をつつくような問題ばかりなのです。しかも、多くの問題が医学とは関係があるようには感じられませんでした。これでは、受験者は何のために、また、どのように勉強するのか途方に暮れるに決まっています。

もちろん、編入試験のみならず、日本では、ふるいにかけるための試験であることが多く、それに対してどれだけ多くの点を取るかが教育としての仕事になっているのです。

こういうことを続ければ、多くの人たちは理解のために勉強に集中できないですし、学問の重要さなどに感謝もできません。さらに、試験が終われば、すべて忘れてしまうのです。

「○○教育が良い」という教育に対して単純な政策を主張する社会風潮がありますが、もう少し、つぶさに教育の現場の声に耳を傾け、良く議論してもよろしいのではと思います。

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数学、科学、工学の違いがわかりますか?

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たまに、日本語の記事を読んだり、日本の方と話していると、数学と科学、科学と工学などを混同している方が多いのに気が付きます。

恐らく、理系・文系という区別の中で曖昧になってしまっている感じでしょう。加えて、どの教科で点数を取るかを目的とした受験の一部としか見ていないからなんでしょうか。

そこで、少し数学、科学、工学とは何かについてお話ししましょう。

まず、数学は、基本的なルールを作り、そこからいろいろな事実を導き出し、その数学的世界観を広げていく感じです。当然、論理的に緻密な世界でなければいけないので、世界構築の作業が数学にとっての肝になります。

ルールに従い、論理的であるということが主体であるため、人間が生活している現実世界と必ずしも一致しません。むしろ、人間世界とは全く違うものが数学的な世界です。

一方で、科学とは、自然を探求する学問で、人間が面している世界がどのように構成されているかを調べるのものです。ですので、実験結果が最終的な証明手段となります。

科学に数学を利用するのは、自然が数学的である部分があるからで、その一部を利用しているだけです。また、数学的な科学モデルも無数に作ることができますが、それが、実験結果を予測できなければ、たとえ数学的に正しくても淘汰されてしまいます。

最後に工学ですが、良くエンジニアリングとい言われるものです。工学は、人間の生活や人間が実現したいことに対して行われる技術になります。その実現手法に電気を使えば、電気工学、力学的なものに基づいていれば機械工学など、いろいろな分野があります。

とにかく、工学は、人間が作るという発明に関したものと言えばよいでしょう。そのために自然科学や数学の一部を利用しています。

それぞれ重要な役割があるのですが、日本では科学に対する認識が低いように思えます。

確かに、日本のように数学、科学、工学の垣根が低いと比較的簡単に分野間で交流できるという利点はありますが、それぞれの得手不得手を把握して俯瞰することができないので、新しいことを行うためのリーダーシップが取りづらくなってしまいます。

現在、提供されている教科が何のためにあるのか、たまには考えてみても良いのではないでしょうか。

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本当の教育改革とは何か、を考えてみましょうか

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今回は少しアメリカと日本の教育の違いと、将来、教育をどのようにグローバルに変えていくのか、もしくは、変えないで行くのかに関して、中学から初年度の大学教育までの平均的な教育内容を用いて議論してみたいと思います。

まず、アメリカの教育ですが、基本的に、自由奔放主義な教育です。

教える側も、ある程度のカリキュラムは規定されていますが、教科書の選択や教え方は自由です。(初等・中等の公立学校は州によって、最低限教えなければならない枠組みが決められています。ただし、厳密なものではなく、学校や教師側の自由度もある感じです。)

良い教師であれば、学生を見ながら個性を尊重し、納得いくまで要求するでしょう。そういう教師は自身の価値基準に従って最後まで妥協せずに学生の面倒も見ます。

しかし、一方で、アメリカ流の短所といえば、自由な環境だけに、できる子はどんどんできるが、できない子は置いていかれる傾向にあります。また、カリキュラムや教師全体に対する管理がそれほど厳しくないため、学生が伸びるかどうかが、個々の教師の能力によって変わってしまいます。

さらに、教師への評価が必ずしも実力に基づいているわけでもなく、資格試験や研修なども国全体で決めているわけではないので、州によっても差が出ますし、平均給与もそれほど高くないので、良い人材も来にくいというのもあります。

一方、日本やアジアの教育は、科目のパッケージを記憶を中心に早く正確に習得させていきます。とにかく、正確な解答や手続きを重んじ、すべての学生が同じレベルの習熟度を得ることに躍起になる傾向にあります。国レベルで枠組みを決め、受験というハードルを作って、尻を叩くというイメージですね。

教え方としては、きちんとできるまで繰り返し訓練する感じです。良い教師であれば、細かいコツを教えながら、少しずつ学ばせ、学生に合わせて心理的な配慮も行います。基本的に、日本では教師に対する選別や管理は厳しいので、一定の基準以上は教えられる比較的優秀な人が多いのも特徴です。

ただ、日本流の管理が強すぎる傾向では、教師側の教える内容の自由度が極端に減ってしまいます。また、ルールだからということで、全く意味のないことなども続けないといけない無駄に時間をかけてしまいがちです。

また、生徒の方は、発想力、プレゼンテーション能力、想像力、創造力を養いづらく、想定内の対応は確実に、しかも、素早くできる一方で、想定外のことが起これば、パニックになって右往左往してしまうか、ルールにはないと言って何もしないかになってしまいがちです。

こういう教育が作る社会的規範は、既定の評価基準だけで同じように人を判断するため、多くの人材がいわゆる画一的、つまり、仕事をやらせればできるけど、何か主体性がないような人たちばっかりを産んでしまい、ユニークで面白い発想を評価できなく、または、そういうのを許さないグループ意識もできやすくなる傾向にあります。

いわゆる、アメリカの教育方法は、発見法的に学ばせたり、秀才を集めてレベルの高い授業をしたりするのですが、大多数の子供たちは、言葉は悪いですが、「無視」される状態が生まれやすい。一方で、一人の天才・秀才が大きく大胆に社会やトレンドを変えられることを当たり前という風潮を作っています。

日本は、型にはめてきちんとできるように教育の場で訓練し、ルールに従い、他の人と同じように振る舞うことが良いとされて、社会や国がそれに対して褒美を与えるようなシステムなので、安定はしていますが、いわゆる、環境が変わり、ゲームが変わった時に主導権を握ることができないような社会になります。

当たり前ですが、両方のやり方に得手不得手があります。それを理解して上手く俯瞰された教育マネジメントができるかどうかが重要になりますが、そういう人もなかなかいません。もし、そういう人たちにチャンスを与えられれば、将来をかえられるかもしれないですね。

そろそろ、現在の形態を超えられるものを作りたいですね。もちろん、決して現状を否定するものではなくて、いろいろな教育の問題を解決でき、現状を凌駕できたら、良い方向へ自ずと向かうと思うのですが、どうでしょうか?

「知識に熱意を掛け算する。 そして経験をプラスする、 そこに知恵が生まれるのである。」
 松下幸之助

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自然数、整数、有理数、無理数といわれる数の面白さとは?

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昔々、人類は、数というものを発明しました。身近にある者を数えるために、1,2,3、…など…これは自然数と呼ばれるものです。

その後、零(ゼロ)という概念が発明され、それに負の数を含め、整数というグループまで数が広がりました。

負の数も身近で言えば、負債などを表現しますが、一番不思議なのが、負の数かける負の数が正の数になることらしいですね。もちろん、単純に負債×負債=大金ではないのですが、ある人が言うには、「階段を下に向かって、後ろにあとずさりしていけば、上に登っていくでしょ」というのが負数×負数の概念を理解しやすいかもしれません。

しかしながら、整数だけで、すべての状況を表せないことがわかってきます。例えば、1つのリンゴを2人で分けると、一人あたりのリンゴの数は、もはや整数になりません。

ここで、分数という概念が出てきます。分数で表される一般的な数を有理数と言います。もちろん、有理数には整数も含まれています。なぜなら、3であれば、1分の3と分数表現できますからね。

これで、人類の周りにある数をすべて表現できることになるのでしょうか?まぁ、普通の生活レベルでは問題ないでしょうが、ある種のお仕事に従事していれば、まだ必要な数はあるようです。

例えば、正方形の面積がわかっている場合、その正方形の一辺の長さはどのように表されるでしょうか?

正方形の面積が4平方メートルであれば、1辺の長さは2メートルですが、面積が3平方メートルなら、どうなるでしょうか?同じある数をかけて3に近くなるような数字は、求めようと思えば求めることができます。

3平方メートルの面積の1辺の長さは、大体、1.73メートルになります。もちろん、少数点以下の数が無限に続くこともわかってきました。つまり、分数では表せない数です。これを無理数と言って、同じ数をかけて3になる数を√3と定義しました。これを平方根と言います。

他にも、数の定義ができますが、人類にとって基本的な数は、上記の数の集まりで、すべてひっくるめて実数と呼びます。

ところで、1から10までの平方根のなかで、整数になるのは、1と4と9だけです。つまり、√1は1、√4は2で、√9は3になります。それ以外は、小数で表されますが、昔から、語呂合わせで覚え方がいくつかあります。

√2=1.41421356 「ひとよひとよにひとみごろ」(一夜、一夜に人見ごろ)
√3=1.7320508 「ひとなみにおごれや」 (人並みに、奢れや)
√5=2.2360679 「ふじさんろくおーむなく」 (富士山麓、オーム鳴く)
√6=2.449489 「によよくよわく」 (煮よ、良く、弱く)
√7=2.64575 「なにむしいない」 (菜に虫いない)ちなみに「な」は√7
√8=2.8284271 「ふわふわよにない」 (ふわふわ、世に無い)
√10=3.16227 「みいろにふな」 (三色に鮒)

ここで、注意しなければならないのは、「い」が1になったり5になったりするところです。√2や√3の小数はよく見かけるので、この二つは覚えた方が便利かもしれませんね。

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アメリカと日本の英語教育の違いとは

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ここ何度か、日本の大学院や大学編入のための英語の試験を教える機会があったのですが、今回は、日本人が学ぶ英語と、アメリカ人が学ぶ英語の違いを説明したいと思います。

アメリカにおける英語教育は、日本で言う国語の教育ですね。当然、基本的な文法も学びますし、それ以上に、読み書きを徹底して教わります。

日本人にとっての英語は、もちろん、外国語になります。ただ、学校では、生きた言語というよりは、どこかの国で使われているだろう「暗号」のように教えられている傾向がありますよね。

つまり、どうやって日本語に訳すことができるか、そのための文法として、どの修飾子がどの単語にかかっているかの分析に終始している感が強いです。

そのため、英和辞書で、ひとつひとつの単語を一生懸命意味を調べて、何とか意味が通るような日本語に直すという作業が英語学習のように見受けられます。

しかしながら、英語は現在、人々のコミュニケーションのために使われている言葉ですので、単語の選び方や、文法を超えた語法などで微妙なニュアンスを伝えているのが現実です。

それを踏まえて、何のために文法があるのかというと、正しく、かつ、美しく物事を伝えるために存在しています。誤解のない表現や、文の形態ひとつひとつに言語の文化や哲学が含んでいるのです。単なる暗号解読のための公式ではありません。

日本の英語教育では、文法は、この関係代名詞がどの単語にかかっているのか、とか、この文はSVOの構文なのか、どこからどこまでが主語でどれが動詞か、などという、言語分析的な発想で見ますが、アメリカ人は、実際使っているので、そのようには見ずに、動詞の活用は正しいか、名詞の単数・複数は、文に呼応しているかなど、文全体のバランスから文法を見ています。というのも、それによって意味が全然変わるものがあるからです。

あと、日本人が苦手な不定冠詞や定冠詞も、文の意味を伝えるのに重要な役割を担っています。日本語においての冠詞は、厳格な文法として存在しないため、日本人は、英語における、冠詞の役割を軽視しがちですが、つけるつけないで、大きく意味が変わるな場合もあります。

また、文法があっているからと言って、正しく伝わらないこともあります。これは、単語の語感や、語法によって、意味が確定しないこともあるからで、日本語のように抽象的な表現が多い言語を英語に直すと、意味が全然伝わらないことも多々あります。

もちろん、全てのアメリカ人が正確な文法を把握しているわけではなく、むしろ、日本人の方が、きちんとした文を書けるとアメリカ人に驚かれることもありますが、少し、程度の高い文を読んだり書いたりするといった面や、より深くコミュニケーションを取る場合は、上のようなことも把握すべきかもしれないですね。

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数学が好きなのか、それとも数学が好きな自分が好きなのか。。。

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「好きこそ物の上手なれ」とよく言います。好きなことは、一生懸命になりますし、自主的に勉強し、創意工夫しながら上達していくということです。

また、よく言う「私は褒められて伸びるタイプ」というのもありますが、まぁ、これは微妙で、学び始める人たち誰もが持つ、不安を解消したいという心理的なものであって、必ずしも、褒める行為そのものが伸びるかどうかに寄与するかは別になります。

実際、その科目をよくわかっている人で、教育に携わり、学生を伸ばそうと思っている人は、安易に学生を褒めませんし、また、安易に叱責も行いません。(もちろん、心理状態を把握して行うことはありますが)

こういう教育的な部分を、どうも世間は誤解しているようです。

実は、こういうことがありました。数学が好きで数学を学びたいという人が私に教えてほしいと頼んできたのです。その人は、大学レベルの数学理論を学びたいと、あるレポート論文を送ってきて、それを教えてほしいとのことでした。

こちらは、相手がどこまで理解しているかを見ながら、実際にそこに書かれている数式や数値を導くように指示しました。

ところが、かなり苦戦したようで、いろいろと文句を言われましたが、実際の計算内容は、中学校レベルの計算でした。

その人は、過去の有名数学者にあこがれて、数学が好きになったとおっしゃられています。数式の美しさや魅力など説明していましたが、実際の実力は、ほとんどついていなかったのが事実でした。

その方が言うに、以前、引退した大学教授を通じて通信教育(手紙のやり取りでの添削)などで学んでいたようです。

ここで、現代の大学(一般)教育において2つの問題点を指摘しておきます。1つ目は、数学そのものを好きではなく、数学が好きな自分が好きな人がいて、実際の訓練を受けてこなかった人がいるということです。

教育の場がいわゆる「コーチ」のもとで適切に訓練されたり、それをもとに自主的に伸ばしていくような環境に本当にあるのか、という問題点です。

この件だけで一般化するつもりはありませんが、本当に高等教育はそれだけのことを身につけさせているのでしょうか?

2つ目の指摘ですが、確かに引退した教授に責任はないでしょうが、中学・高校生程度の数学的なリテラシーさえ見抜けない状態で指導し続けていたというのも疑問に感じてしまいます。

これは、少し考える機会になるかもしれません。我々が、学校に行っている、試験に通った、という事実だけを評価していますが、中身が伴っていないというのも多々あるのです。

もちろん、解決法は簡単に見つからないのが現状ですが、少なくとも、「このような教育問題を良く知っている人は誰なのか?」というアンテナを常に張って、そういうところから情報収集するというのは、親として社会として重要な責任になって来るのではないでしょうか?

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「お釈迦様へのあこがれ?」本当の意味における教育問題

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最近、日本の受験より、韓国や中国の受験のレベルが高いなどと言われています。だから、日本の競争力が落ちてきている、など評論する人もいますが、実際の中身は、もっと複雑でしょう。

受験問題を複雑怪奇な難問にすることは、誰にでもできます。受験生がそれを100%理解していなくてもそれなりに解くことはできますし、所詮、合格者は、上から順番に取っていくというものでしかありません。つまり、難問奇問が試験に出すことと学力はそれほど関係はないのです。

ただし、考えさせるような、チャレンジさせるような「教育」(テストとインタラクションの両方)がそのベースにあるかどうかの方が重要になるのです。

そういう意味では、日本では、教育の質と将来の人間や社会に対するグランドデザインがきちんとリンクされて行われているのでしょうか?

社会や将来への期待にこたえられるかどうかとなると、社会制度がそういう人材を生かしきれているのか、というのも問題になってきます。

それらすべての要素に教育がつながっていると認識している方は、どれくらいいるのでしょうか?

教育は何も、お上から下ってきた教科書を、一字一句、生徒に暗記させる作業ではないのです。独り立ちして考えられる人間を育てる総合的な環境づくりやコーチングに根ざしていないといないのです。

問題の発見の仕方、その解決の仕方や、自由な発想や、想像力。それらを学べ、実行できる環境が社会全体にあるのかが、その地域(国)の教育レベルなのです。

ある所に一流と言われる経歴を持った人がいます。地位も確約され、周りからも尊敬されていますが自由はあまりありません。

ある人は、学歴などはないのですが、商才や人脈に長けていて、多くのビジネスを成功してきています。

また、ある人は、大好きな学問や研究に没頭しています。非常に幸せですが、お金に関しては、苦労しています。

それぞれの成功の価値観や、得手不得手もありながら、人生に価値を求め、社会に貢献をしています。もちろん、実際は、もっと複雑であると思いますが、成功方程式の解は一つではありません。これも、教育が認識すべきことです。

西遊記で、孫悟空がお釈迦様に勝負を挑まれました。お釈迦様は、悟空が自分の手のひらから出ていくことができれば、何でも言うことを聞く、と。

悟空は筋斗雲で10万8千里をひとっ飛びと言ったものの、結局、お釈迦様の手のひらより遠くへ行くことができず、罰を受ける、というお話です。

悟空は、とても能力があり、戦いではだれにも負けたことはありませんでした。いわゆる、その世界でトップです。

それが、お釈迦様の領域から抜け出せないのです。どうみるべきでしょうか?

現代の社会でも言えますが、非常に優秀な人間が常に、しかも、何にでもすごいというものではなく、他の違った認識の下では、限度があると謙虚に理解すべきなのです。

また、これも教育という概念の中で考慮すべきこと、教え伝えるべきものなのかもしれません。

試験だけ、何か一つの目的のため、という教育は、もう成り立っていないのです。

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